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 まず最初に運ばれて来た料理は、白身魚とキュウリに似た野菜の合わせ物だった。
「ハモと冬瓜の梅肉和えです」
 ハヤセさんがそう説明する。瓜は漬け物になったものは良く知っているが、こういった火を通して調理したものは食べるのは初めてである。どんな味がするのかと、恐る恐る箸を伸ばしてみると、瓜は見た目よりも柔らかくて手応えがなく、あっさり箸で千切れてしまった。力を込めては取れないようだから、今度は優しくそっと箸の先で摘まみ取る。冬瓜とは瓜の一種だが、それ自体の味は非常に淡白で歯応えもさほど無い。ハモもどちらかと言えば淡白な味わいの魚だが、それらを梅肉がうまく繋いで適度に塩味を足している。淡白な物同士、実に相性が良い。
「まあ、随分と上品なお味ですこと」
「確かに。初めて食べましたよ、こういう料理は」
 皆もこの料理が気に入ったようで、表情を綻ばせながら箸を運んでいる。
「ところで、先生は京都出身なのですか?」
「いえ、違いますよ。単に彼女が京都の料理屋に修行へ出てて、最近ようやくのれん分けを許されたから紹介しようと思ったのです」
「へえ。では、そのハヤセさんとはどういう関係で?」
「中学の後輩ですよ。期待には添えませんので悪しからず」
 本当にそうなのだろうか、と俺は二人の関係を邪推する。担当医は自分の事を朴念仁のように謙遜していたが、謙遜ではなく本当に自覚が無い可能性もありそうである。
「でも、のれん分けという事は相当な修行をされたのですか?」
「全く無いという訳でもありませんが、伝統的な店ともまた違いますから。ほら、この店をご覧になればお分かりになると思います。こんな現代風の建物、伝統的な所でしたら絶対に認められませんからね」
「なるほど。でも、まだお若いのに自分の店を持つなんて凄いですね」
 自ら起業し会社や店を経営するような人物は、やはり社会に出るスタートが周囲と違うのだと思う。学生の頃から将来に対する明確なビジョンがあって、それを実現するための行動力があるかどうかが明暗を分けるのだろう。果たして学生時代の自分はどのような事を考えて、将来についてどう思っていたのか。今は記憶が戻らずまるで思い出せないのだが、大方の予想はつく。今と同じ、自分の発熱する体調へ対しての漠然とした不安だ。この体調をどうにかしない限り、そもそもスタートラインになど立てないと考えていたに違いない。
 料理の説明もそこそこに、ハヤセさんは一礼して厨房へと戻って行く。一人で調理から給仕をこなす辺り、一通りの事を修行で覚えたのだろうと思う。
「冬瓜には解熱作用もあります。お二方には調度良いでしょうね」
「まあ、先生。私、最近はさほどお熱は出ていませんのよ。先生のお薬のおかげかしら?」
「処方しているのは体調を整える漢方だけですよ。それほど強い効き目はありません。つまり、アクツさんの体調が良くなって行ってるという事ですよ」
「本当、先生にかかって良かったわ。私、どこの病院に行っても原因が分からなくて一向に治らなかったのよ。今日もこうしておいしい御飯が食べられるのも、先生のお陰ですわ」
「ははっ、そう言って頂けるととてもありがたいです。なんせ、実のところ私も原因までは分からないんですから」
 原因不明の熱。そこでふと俺は今日の趣旨を思い出した。
「あの、そう言えばまだお話してませんでしたが。アクツさんも、原因不明の熱に悩まされているんでしたよね?」
「ええ、そうなんです。えっと、アクツさんとお呼びしたらお互い紛らわしいかしら。下のお名前でも?」
「はい、お気になさらず」
「そう。では、イサオさんも私と同じ症状だと先生にうかがっておりますわ。やはり夜中に突然出てきますの?」
「そうですね、基本的には。ただ、最近はちょっと悪化してきて、日中にも来る事があります」
「まあ、大変ねえ。でも大丈夫、私も一時期はそうだったけれど、しばらくすると段々落ち着いてくるから。先生のおかげなのよ」
 俺もその先生にはもう長いこと掛かりつけているし、その上熱は一時期どころか物心ついた時からずっと悩まされているのだが。俺よりもアクツ夫人の方が症状は侵攻していないのだろうか。
「アクツさんは何時からその熱が出るように?」
「さあ、何時からだったかしら。私、ちょっと物忘れが酷くなってきて、あまり昔の事は思い出せないのよ。いやだわ、きっとボケて来ちゃったのよ」
「まさか。誰でもそれぐらいの物忘れはありますよ」
 そう担当医がフォローする。確かに彼女ぐらいの年齢なら有り得なくもない。しかし、全く昔の事が思い出せないほどなのだろうか? そこまで俺と同じ症状なら、完全に同じ病気を患っている事になるのだが。
 そんな会話の中、厨房からハヤセさんが次の料理を運んで来た。
「フキと厚揚げの煮物です」
 淡青のかかった涼しげな皿に、鮮やかな薄緑のフキと温かい黄土色の厚揚げが盛りつけられている。フキはしゃきしゃきとした歯触りで食感が良く、厚揚げは柔らかい割に型崩れがなくダシがよく染み込んでいる。フキの煮物は時々キョウコが作るから馴染みがある。けれど、味付けはキョウコのより甘めだ。京風の味付けというやつだろう。
「私、実は子供の頃にフキを採っていましたのよ。油で炒めても美味しいし、近所のお店に持って行けばお小遣いが貰えたの」
「フキをですか? どこに生えてるんです。畑?」
「いやねえ、畑じゃ泥棒よ。山の中よ。通っていた学校近くの。私、就職するまで凄い田舎の山奥に住んでいましたのよ。だから、ちょっと足を伸ばせば簡単に見つかりますの」
「ははっ、子供の頃は意外とお転婆だったんですね」
「そうなの。毎日泥んこにまみれてたわ」
 さらりと昔の話をする所を見ると、どうやら俺のように昔の事を全く思い出せない訳ではないらしい。だが、普通の会話では明らかな記憶の欠落が見られる。記憶の無くなる切っ掛けか部分か何かが俺とは違うのだろう。いや、単に痴呆が始まっているだけなのかもしれない。痴呆に効く薬はあるのだが、絶対に治癒する訳でもない。アクツ夫人は甲斐の無い残念なケースだったのだろう。