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 とりとめなく談笑を続けていると、やがて次の料理が運ばれて来た。今度はこれまでとは違い大皿の料理だった。
「フグ刺しです。お好きな薬味でお召し上がり下さい」
 テーブルの中央に置かれた大皿は、藍色の文様が描かれた美しい一品だった。文様が見えるという事はそれだけフグは薄いという事だが、それは身をけちっている訳ではなく、何でもフグには食べるのに適した厚みというものがあるかららしい。それが話によると結構薄いそうだ。食べ物は厚い方が旨いと思うのは、あまり上品な発想ではないという事なのだろう。
「ふぐって意外と歯応えがありますね。味も濃いし」
「それは深い海を泳いでいるからだそうですよ。たんぱく質の構造が普通の魚と違うとかで」
「へえ、だから毒があるのかな」
「それは海水に含まれてる毒物を蓄積させているからですよ」
「先生、流石に詳しいですね。そう言えば、フグって昔は鉄砲って言ったそうですね。毒に当たると死ぬこともあるから、鉄砲の弾にかけてるとか」
「まあ、面白い。当たったらどちらも大変ですものね。でも、実は私、多分フグの毒くらいなら平気なのよ。ナノマシンで内臓がとても丈夫になっていますの」
「えっ、そうなんですか?」
「本当。だから梅雨の時も食中毒なんてならないし、冬も平気で生牡蠣を食べますの」
 アクツ夫人がナノマシン化している事は、担当医から予め俺と似た症状と聞いているから、大方の予想はついていたのでさほど驚きはない。それよりも気になったのは、彼女が本当に体が丈夫なのかどうかという事だ。少なくとも、発熱の習慣があるだけならば車椅子に乗るような事は無い。これは恐らく別な理由があっての事だろうが、流石に初対面でそれはあまりに失礼過ぎる。車椅子の理由はもう少し仲が良くなってから聞いた方が良さそうだろう。
「生牡蠣とは凄いですね。自分でもちょっと躊躇っちゃいますけど」
「だからどこの病院に行っても、とても驚かれるのよ。内臓がこんなにナノマシン化しているのかって。いやねえ、別に今時珍しくもないでしょう?」
 とは言っても、驚かれるという事は相当進んだ状態だからなのだろう。俺も大概ナノマシン化が進んでいて、担当医からこれ以上は危険だと止められる状態だ。アクツ夫人もそれぐらい進んでいるのだろう。
「実は自分もそうなんです。内臓をほとんどナノマシン化させていて。こうしておけば熱が収まるんじゃないかと思っていたんですけどね」
「分かるわあ、その気持ち。私もそう思ったの。だけど全然駄目。しょっちゅう熱が出て来てしまって。だけど、後悔は無いの。おかげで好きなものが食べられるから。この歳になって、厚いステーキなんか食べても、全く胃もたれしないのよ」
「ああ、それは確かに実感ありますね。油物なんか凄い分解されてるって思いますから。となると、やっぱりフグも本当に当たっても平気なのかもしれませんね。先生、そこら辺はどうなんでしょう?」
「いやね、幾ら何でも彼女の前でそれは。ちゃんとフグ調理の免許も持ってますし、フグも確かな筋から仕入れてるんです。このフグは当たったりなんかしませんよ」
「たとえばの話ですよ。たとえば」
「まあ、死にはしないと思いますよ。ただ、相当苦しむだけで。これは本当です。なんせ、ナノマシン化が広まり始めた頃にそういう噂が立って、違法に調理したフグを食べて担ぎ込まれた人が大勢いたんですから」
「まあ、おかしいこと。やっぱりフグって怖いのね。そんなのを食べているなんてドキドキしちゃう」
 そう笑いながらアクツ夫人は、大胆に大皿へ箸を滑らせて数切れのフグを一度に取る。さも美味しそうに子供のような笑みを見せる彼女に続き、俺もまた行儀悪く数切れまとめて取り、口の中へ運んだ。やはり厚みがあった方が歯応えがあって、味も食感もずっと楽しめる。そんな自分の好みを確認する。
「それにしても、どうしてナノマシン化してるのに当たっちゃうんです?」
「簡単な事ですよ。元々内臓に出来ない事は、ナノマシン化したって出来ないんです。人間の体は、フグの毒を無毒化して吸収する作りじゃないんですから、幾ら強化したって出来ないのは当たり前です。せいぜい苦しむ時間が短くなるだけですよ」
「まだまだ万能とは言えないという事ですかね」
 そして、万能ではないために、俺はまだこの発熱の体質と付き合わなければいけない。技術の進歩が先か、熱にやられて死ぬのが先か。自分の体調を非常に際どいものと思っていたが、アクツ夫人の事を考えると、案外なんとかなるのではないかと少しだけ楽観出来た。
「私、最近思うのよ。もう熱なんか治らなくてもいいんじゃないかって。だって今更長生きしようとも思わないし、十分人生楽しんだもの。それだったら、後は好きな事をして過ごすのがいいわ」
「まだ余生なんて言うお年でも無いでしょうに。楽しみもまだまだあるのでは? そうだ、お二人はお子さんはいらっしゃいます?」
「あら、どうだったかしらね。ね、あなた?」
「いや、子宝には恵まれませんでしたよ」
「そうなの。養子を取ろうとも考えたんですけれどね」
 微笑むアクツ夫人の隣で、アクツ氏が強張った表情で口を結んでいる。担当医の方を盗み見ると、やはり僅かに引きつった表情で曖昧に微笑んでいた。今のアクツ夫人の言動に困惑している様子だったが、何も知らなかったという訳でもなさそうだった。このおかしな言動は今に始まった事ではないのだろう。
 自分に子供がいたかどうかすら覚えていないのか。
 アクツ夫人は俺と同じく記憶に問題があるが、その程度や頻度が全く異なっている。俺は最近の事には問題は無いが、過去の記憶は全く思い出せない。一方アクツ夫人は、過去の記憶はそれなりに思い出せるが、最近の事はそうでもないのかどこか言動がちぐはぐになっている。これは全く同じ症状なのだろうか。それとも、何か異なる原因があるのか。
 先ほど、俺の症状はアクツ夫人と似ているからと安堵したのだが、今は背筋がゾッとするような気持ちになった。まさかこれが、将来の自分の姿なのだろうか。