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 食事会も終わり、俺達は一旦クリニックの方へ戻る事になった。本格的な京料理など初めてだったがどれも美味いものばかりで、非常に満足の行くものだった。そのせいでつい酒を飲み過ぎ、帰る前にもう一度クリニックであのコーヒーを飲んで酔い覚ましをしたかった所である。皆も一息つきたいといった様子で異存は無かった。特にアクツ氏は一度休憩したい雰囲気が色濃く出ていた。アクツ氏は下戸なのかあまり酒は飲んでいなかったのだが、アクツ夫人が相当に飲んだようで終始はしゃぎっ放しなのが理由だろう。店を出て歩道に出てもまるで声のトーンが変わらない所から察するに、泥酔一歩手前まで来ていると思う。寡黙なアクツ氏も、流石にそれをあしらうのには難儀しているようだった。
 クリニックに到着すると、早速待合室の照明がつけられて各々がソファーへ崩れるように重くなった腰を下ろした。酒を飲んだせいで体が暑く感じ、すぐに空調のスイッチが入れられる。家庭用とは違い、すぐさま肌で空気の温度が下がっていくのを実感出来た。大量の空気を一気に循環させられるからだろうが、維持コストもそれなりのものなのだろうと想像する。
「皆さん、コーヒーでよろしいですか?」
「先生、ミルクはありますかしら。そういえば私、あまり胃が強くありませんの」
「もちろん、大丈夫ですよ」
 ナノマシン化している内臓がコーヒーぐらいでどうにかなるはずはないのだが。そこはアクツ夫人の言うことなので、みんなその事には触れなかった。
「あの、先生。ちょっとよろしいでしょうか?」
 その時、担当医を呼び止めたのはアクツ氏だった。食事会の時もほとんど話していなかったから、今更こんな声をしていたのかと頷きそうになる。
「はい? どうかされましたか?」
「いえ、ちょっと私の薬の事で御相談したい事がありまして」
「でしたら、私がコーヒーを淹れてきましょう」
「ああすみません、またキョウコさんに頼ませてしまって。お願いします。では、アクツさん。診察室の方へどうぞ」
 そんなやり取りをし、三人がそれぞれの用事で待合室を後にしてしまう。
 俺は少し火照った体をだらりとソファーに預け、足を広げたまま天井を見上げた。食べ過ぎて胃の辺りが重苦しいのと、額と背中にじんわりと浮かんだ汗が気になって、体を動かすのが非常に億劫だった。空調からの冷たい風が心地良く、このまま軽く一眠りしてみたい気分である。けれど、そうのんびりとする訳にはいかなかった。期せずして、アクツ夫人と二人きりになってしまったからだ。
「ああ、いい気持ちねえ。なんかこう体がぽかぽかするわあ」
「流石に飲み過ぎですよ。昼間から三本もなんて」
「ふふ、嫌だわあ。こんなに楽しい事なんて久しぶりだったから、ついはしゃいじゃったわ。でも、何だか若返った気分よ。若い人と食事をしたからかしら」
 かくいう俺も、酒のせいで体がじんわりと熱くなっている。俺はあまりこういう感覚が好きではなかった。何となく発熱を連想させるからだ。実際の熱は体か熱くなるというよりも、嫌な悪寒がするものなのだけれど。
「ねえ、イサオさん。あなた、まだお熱が出たりするのかしら?」
「熱ですか? ええ、まあ。実はついこの間、入院までしたんです。一時は危なかったみたいで」
「あら、本当? そんなに酷いの。でも大丈夫、私も何度かそういう事があったから」
 アクツ夫人も例の熱で死にかけた事があったらしいが、それは一度や二度の事ではないようだ。そうなると、やはり俺もまたああいった急な熱に襲われる事があるのだろうか。今回はたまたま助かったような感じがしているだけに、もしも次回起こった時は無事で済む自信が無い。
「ところで、イサオさんは先生からお薬貰っていらっしゃるの? お熱のお薬」
「薬ですか? 解熱剤は少し。まあ、気休めぐらいにしか効かないんですけどね」
「あら本当? それじゃあ、私が貰っているのと違うお薬なのかしらね」
「違う薬?」
 似たような症状のアクツ夫人なのに、違う薬が処方されているというのか。それがもしも、俺に処方されている解熱剤よりも効き目の良い解熱剤だったとしたら、少々心中穏やかではないものがあり、思わず、おや、と眉尻を釣り上げる。
「ほら、これよこれ。この薬を飲むとね、熱なんてほとんど心配いらないの。それぐらい効いてくれるのよ」
 アクツ夫人はハンドバッグからプラスチックのピルケースを出し、半透明の蓋越しにそれを見せてくれた。アルミ紙の包装に包まれたカプセルのようだが、包装に描かれているラベルはケースのせいで良く見えない。おそらく、どこかのメーカーが販売している正規の医薬品だとは思う。
「確かに、自分とは違う薬ですね」
「これを飲んでおくとね、お熱なんて何も心配しなくていいのよ。でも、飲むと何だか体がだるくなっちゃって。副作用があるみたい」
「じゃあきっと強い薬なのでしょうね」
 こんな薬の事など、俺は担当医からはこれまで一言も聞かされた事が無い。何故アクツ夫人にだけ処方しているのだろう? 体がだるくなる程度の副作用など、まだ体力のある俺にとっては大したものではないのだが。意図的に隠していたとしたら、その理由が今ひとつ思い当たらない。
「そうだ、せっかくだからイサオさんにも少し分けてあげるわ」
「えっ、薬をですか? いや、しかし」
「いいのよ、大丈夫。私ね、症状がもう落ち着いているから、そんなに飲まなくても平気なのよ」
 俺が言いたいのはそういう意味ではなく、自分に処方された薬を他人に渡すのは良くない、という事なのだが。
 しかし、俺はそれ以上の言葉を躊躇ってしまった。何故なら、俺はその薬に強く興味がそそられてしまったからだ。これだけナノマシン化したにもかかわらず落ち着いてくれない熱病を、心配しなくて良くなったと言わしめるほどの効き目がある薬、興味がわかないはずがない。それに、俺は職業柄そういった事を調べる事も出来る。もしかすると今後は発熱の心配をしなくても済むのではないか。そんな期待感すら沸き起こってくる。
「はい、それじゃあこれくらい。週に一度くらい飲むそうよ」
「分かりました、ありがとうございます」
 遂には好奇心に勝てず、素直にアクツ夫人から薬を受け取ってしまった。俺は財布の中に薬をそっと忍ばせておいた。