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 クリニックを訪れたのは、あの発熱からの翌週末の事だった。
 ナノマシン化も止め、アクツ夫妻との食事会という素人には理解し難いカウンセリング治療へシフトしている今、担当医の所で受ける治療などこれと言って無いはずなのだが、念のための経過観察や問診、それから気休めの解熱剤を貰うのには必要である。世話話のために行くのであれば気は進まないのだが、今回は担当医に問い質したい事がある。俺はそれらを整理した上で、仕事の半休を取って出掛けた。
 クリニックの待合室はいつもの見慣れた光景で、此処に居ると時折時間の感覚が狂ってしまう。病院は時間のストレスを患者に与えないように、内装の色合いにも工夫をしているらしいが、此処の待合室もそういう仕組みなのだろう。
 三十分程の順番待ちの後、診察室へと名前を呼ばれる。役所や郵便局では機械による音声案内が普通なのだが、病院は未だに人の声でのアナウンスが多い。これもまた同じ理由なのだろう。病院や医者の仕事というものは、建物からして気疲れのするものである。
「お久しぶりですね。あれから調子はどうですか?」
「まあまあ、と言った所です。先週はちょっと熱を出してしまいましたけど」
「おや、大丈夫でしたか? その前は、入院までされたじゃないですか」
「そうなんですけど。でも今回は、最初は足腰も立たないくらいでしたが、翌朝には嘘のようにケロッとしてましたよ」
「そうですか。何はともあれ、大事に至らなくて良かったです」
 受け答える担当医は、普段と何ら変わらない素振りだった。熱が出てもすぐ下がったくらいでは、何も驚きはないようである。それはまだ核心には遠いのだろう。やはり、重要なのはアクツ夫人にのみ処方した免疫抑制剤だ。そこへ斬り込んでいく他ない。パネルに軽快な指さばきで情報を打ち込みカルテを作成する担当医の姿を見て、何か上辺ではない奥の何かを引きずり出そう、そう意気込んだ。
「今日は一通り検査をしてみましょう。ここの所、体質が不安定なようにも取れますからね。急変するような原因があるかもしれません」
「ええ、それは構いませんが。あの、それとは別に、ちょっとお訊きしたい事があるのですが」
「はい、なんでしょう?」
「コルチレートという薬をご存知ですか?」
「えっ?」
 直後、キーを弾く指のリズムが、見て分かるほどに狂い出した。火を見るより明らかな動揺の仕草である。これだけで、担当医があの免疫抑制剤を俺にわざと隠していた事は確定したと言って良いだろう。本当に後ろめたい事が無ければこんなのはただの薬の名前でしかなく、文字を打ち間違えるほど動揺する理由にならない。
「どうしたんですか、急に? そりゃ私は医者ですから、それぐらいの知識はありますけれど」
「私も、職業が薬剤師ですから、効能は分からなくとも名前だけで調べる術があります」
「それは分かりますけど。一体それが何故?」
「免疫抑制剤ですよね。それに、今あなたはこの薬を知ってるとおっしゃいました。でもおかしいですよね。私はここにかかりつけてから随分経ちますが、コルチレートの話など打診もされた事がありませんよ」
 担当医は目に見えて動揺の色を顕にし、何度も視線をディスプレイとこちらとを往復させ、苦しげな息を時折漏らす。何か言い訳を考えているのかも知れないが、言い逃れ出来るような状況ではない事ぐらいは理解出来るはず。そんな担当医が結論を出すまで沈黙を続けていると、やがて決心したのか担当医は徐に側の看護師へ席を外すように促した。これで、この狭い診察室には我々二人きりである。要するに、そうでもなければ話しづらい内容だという事だ。
「薬の話、もしかしてアクツさんですか?」
「ええ、そうです。この間の、食事会の後に此処へ寄った時に」
「なるほど。まったく、困ったものですね……」
 溜め息をつきながら苦笑いを浮かべる担当医。それは、単にコルチレートの事を暴露されたから、というような苦味走りではなかった。
「ええ、私は確かに彼女へコルチレートを処方していました。それも、診察を受けてからそう間も空けずに。そして、あなたに処方しなかったのも、お察しの通り、故意によるものです」
「やはりそうですよね。でも、何故ですか?」
「その前に。何故、彼女にここへ通って貰っていると思います?」
 おかしな事を訊くものだ、と俺は首を傾げた。病院へ来る理由などそう多くは無い。第一、アクツ夫人は俺に比べ見るからに体の調子が悪そうではないか。
「正確な診断と、適切な治療。そして、薬の処方のためでしょう?」
「そうですね。大半はそうです。彼女は今も問題を抱えていますから、その回復のために来て頂いています。ですが、そこにはもっと重要な本来の目的があるのです」
「本来の目的? 熱病の治療のためじゃないんですか?」
 はい、とも、いいえ、ともつかない、曖昧な表情で一瞬だけ笑みを浮かべて消す担当医。その笑みは一瞬だったのではっきりとした事は分からなかったが、あまり明るい意味での笑みではなかったように思える。
「私達は、彼女にある告知をしようと思っています。ですが、それは非常に複雑で難しい問題で、場合によっては、存命中の間には出来ないのかもしれません」
「告知って一体何なのです? 生きている間に出来ないかもしれないって、一体何にそれほど慎重になっているのです?」
「それは言えません。理由もです」
 何故理由を隠すのだろう、単なる医者の守秘義務ではないのか。担当医の返答は率直に不自然なものだった。それに、私達、とは一体。こちらの質問に答えているようで、まるで答えていない。何かのらりくらりとかわされているような気がしてならない。
「達、とは、俺にも関係がある事なのですか?」
 その質問に対し担当医は、またしてもどちらともはっきり答えずに、曖昧な表情のまま一瞬の笑みを浮かべて消した。
 何故この質問に答えないのか。それとも、答えられない理由があるのか。