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「明……津……功」
 今朝もまた、朝食後に専用のノートを開き、自分とキョウコの名前の漢字の書き取りを行う。初めは馬鹿らしいやら情けないやらでどうにも気が進まなかったのだけど、今はすっかり開き直って毎日黙々と取り組んでいる。やはり、チラシの裏紙などではなくノートに書くことにしたのが効いていると思う。チラシは書いたら捨ててしまうだろうが、ノートは過去の分がずっと残り、それがある程度溜まると簡単に打ち切るのが勿体無く思えてくるのだ。
「石……河……香……子」
 それぞれの名前を五度ずつ書き取る。流石に漢字は覚えてしまったが、依然として自分に深く関わりがあるものだという馴染みは出て来ない。忘れていたものを思い出したというよりも、新たに人の名前を覚えている作業をしているのに近い。忘れているものを覚え直しているのだから、そう感じるのも当然ではある。ただ、こうして毎日書き取りをすることで、無くした記憶がある日ひょっこり蘇るのではないのかという期待を持っていなかったと言えば嘘になる。
「イサオさん、コーヒーは飲みます?」
「ああ、そうだな。書き取りも終わったし、もう一杯飲んだら出掛けるよ」
 毎朝出掛けに飲むコーヒーは、何時の頃からの習慣になったのかは覚えていない。別段コーヒーにこだわりがある訳でもなく、眠気を覚ます必要があるという訳でもない。コーヒーの味そのものは好きだが、どちらかと言えば、一日をテンポ良く過ごすための儀式として飲んでいるのだろう。何らかのきっかけがあってやるようになったのだと思うが、それも思い出せない辺り、相当昔から続いているに違いないようだ。
「漢字の方は覚えられましたか?」
「まあ、覚えるだけならな。流石にいい歳だからね。でも、やっぱりしっくり来ないんだよな。自分の名前じゃないみたいで」
「そういうものですよ。自分の名前を初めから漢字で書ける人はいないんですから」
「だから、俺はいい大人なんだってば」
 コーヒーを飲み終えた後、時間がいつも通りであるのを確認して職場へと出掛ける。昔の事は思い出せないのだが、職場と自宅との位置関係や通勤ルートは幾らでも思い出せる。それはきっと、頻繁に行き来しているからなのだろう。自分の名前も繰り返し書き取れば、同じぐらい自然に思い出せるようになるのだろうか。
 職場に着き、いつも通り同僚や上司に挨拶をしながら早速自分の仕事に取り掛かる。この流れの中にも、一つとして思い出せず戸惑うような要素は無い。皆の名前は漢字で思い出せるし、自分の仕事の経過も正確に昨日の続きから今日の目算まで立てられる。通勤路と同様に、日常で意識する頻度が高いから忘れる事が無いのだろう。その説が正しいと仮定して、俺が自分やキョウコの漢字を忘れてしまったのは、それだけ関心が薄かった事になるのだろうか。
 今日の仕事も際立った問題は無く、平穏無事に進んだ。流行りの感冒でも無ければ一日にやって来る客の数はそう変わらないので、自分の仕事のペース配分が取りやすく、不意の事への備えも出来る。仕事に余裕があるのは好ましいのだが、その分雑念が入り込む余地も生まれ、時折手が止まる。
 どうすればもっと自分の名前の漢字に馴染めるだろうか。それに、忘れているのは自分とキョウコだけとも限らないはず。覚えている人と覚えていない人との差を埋めるために、書き取りの名前をもっと増やした方がいいのだろうか。
 そんな事を考えながらつい放心してしまうことを、仕事の合間合間に何度か繰り返してしまう。同僚や客にはその姿は見られていないが、もっと仕事に集中せねばと都度都度自分を戒める。ただでさえ通院が多く体調が良くない印象を持たれているのだから、進退に発展するような問題を不必要に増やしたくはない。
 やがて時刻は正午を回り、仕事の切りの良いところで昼休みに入る。今日は外には出ずにキョウコの用意した弁当を控え室で食べる。控え室には俺以外に三人ほど休憩に入った人間がいるが、いずれもあまり仕事での接点が無く軽い面識がある程度のため、こちらからは特に話しかける事もしなかった。無論、彼らに関しては名前など元から覚えてはいないのだから、思い出せなくても問題には思わない。
 保温性の材質で作られた弁当箱は、まだほんのりと微熱を帯びていた。蓋を開けると、炊き込みご飯の濃厚な香りが鼻をくすぐって来た。他には鰤の照り焼きや野菜の煮物などが色鮮やかに詰められている。前回は洋風だったが、今回は純和風の献立になっているようだった。キョウコの作る弁当は意外とレパートリーが多く素朴で飽きが来ないから気に入っているのだが、特に最近は健康がどうとかいう理由で味付けが薄くなり、肉類や脂もののおかずが滅多に入らないのが不満である。脂肪ならともかく、多少塩分を取り過ぎた所でナノマシン化による代謝力には何の問題も無いのだが。大昔から伝わっている、塩分を控える、という標語が未だに頭の中に居座っているのだろう。
 レンコンの煮物をかじってみると、コリコリとした歯触りの他に味はやはり薄味になっていて、思わず苦笑いしそうになった。キョウコの古風というか古臭い部分は、まるでお節介な母親のようだと思ってしまう。もっとも、俺は自分の母親がどのような人物だったのかは知らないし、一般的なメディアに出て来るステレオタイプの母親像を重ねているだけなのだが。
 続いて味の少し濃い昆布巻きを口にし、ふと件の母親の事を再度思い浮かべた。今までほとんど気にも留めていなかったが、俺の母親はどんな人物だったのだろうか、そういった事を何も知らないのだ。まさか母親の事もすっかり忘れてしまっているのではないのか。そんな危惧も抱いたが、良く考えてみれば、母親がいるのなら向こうからたまに連絡ぐらいしてくるだろうし、キョウコも何かしら知っていて当然である。それが無いのだから、忘れているとしても、少なくとも存命ではないのだろう。
 シメジの香りを満喫しながら炊き込みご飯を頬張り、鰤の身を一片摘んで口に運ぶ。その組み合わせを楽しんでいた時だった。
「おっと」
 突然携帯電話が鳴り出し、手にとって画面を確認する。写っていたのは着信画面だったが、発信主の名前には石河とだけ表示されていた。一瞬キョウコの事かとも思ったが、キョウコのアドレスはフルネームで登録しているし、何より着信音が違う。となると、同じ名前の別な誰かという事になるが、石河という変わった名字の知り合いなど他に心当たりは無い。一体、いつどういった経緯で俺はこの名前を登録したのだろうか。
 考えていても仕方がないので、急いで口の中の物を噛み砕いて飲み込み、電話に出た。
『もしもし、アクツさんですか?』
「え、ああ、はい」
『イシカワです。今、お電話大丈夫ですか?』
「ええ、大丈夫です」
 電話口から聞こえてきたのは、やけに親しげな男の声だった。それも聞き覚えのある声である。少しだけ曖昧な返答をし、その声の主を記憶の中から探し出す。程なく前回の通院の時の記憶から、声の主がクリニックの担当医である事に気が付き、慌てて口調を取り繕った。
『急なんですけど、今夜飲みに行きませんか?』
「随分急ですね。まあ、構いませんよ」
『ちょっと事情がありましてね。それは後ほど説明します。なに、堅苦しい事ではありませんから』
「分かりました。では待ち合わせはどちらにします?」
『こっちの方が先に終わりそうなので、出向きますよ。アクツさんの仕事場の住所は、保険証にある通りですよね。そこの近くの喫茶店にいます』
「了解です、それでは後ほど」
 電話を切り、随分意外な所から電話が来たものだと一つため息をつく。それからキョウコに帰りが遅くなると連絡しようと、携帯の電話帳を開く。そこでふと、キョウコと担当医が同じ石河姓である事に気付く。親戚関係か何かかと短絡的に思ったが、確かに珍しい名字だが有り得なくもない偶然だ。俺の名字もあまり聞かない字を書くが、入社したばかりの頃に本社に偶然同じ名字の役員がいて、間違いの内線を回された事が多々あったのだから。