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 担当医と合流した後、彼に案内されたのは、やや市内から外れた駅の近くにある、ビルの一室を借りて営業しているバーだった。
 店内は数本の燭台にぼんやりと照らされて薄暗く、軽快なジャズが小さめの音量で流れている。観賞植物も幾つか置かれているが、品種までは俺には分からなかった。
 まだ早い時間のためか店内には他に客は無く、カウンターの中で若いバーテンダーが無言で氷を削っている。俺は担当医に促され、カウンターの真ん中の席へ並んで座った。
「ここは私の行き着けなんですよ。もっとも、ここ一月ばかりは忙しくてサボってましたけどね」
「お住まいはこちらの方面なのですか?」
「いえ、正反対です。でも、近所には肌に合うバーが無いんですよね。だから、わざわざこっちまで足を運ぶんです」
 バーには学生時代の時に何軒か通った記憶があるが、当時はいずれも俺の生活には定着はしなかった。今はキョウコと良く行く行きつけの店があるが、確かにそれらと比較すると居心地の良さやメニューの好みに決定的な差がある。多少遠出になろうとも、そういう店に通ってしまうという心理には強く共感が出来る。
「先に何か食べませんか? ここのパスタはお勧めなんですよ」
「いいですね、戴きましょう。ちなみに、何のパスタですか?」
「それが日によって違うんです。そこが面白い所なんですよ」
 そう楽しげに語りながら、担当医はバーテンダーにパスタを二皿注文する。俺としては食べたいと思うものを注文して食べるのが好きなので、こういった開けてビックリという余興はあまり好きではない。この辺りは担当医との好みの違いだろう。
「最初は何を飲みます? とりあえずビールでも?」
「この店の売りは知りませんし、お任せしますよ。特に飲めないお酒はありませんから」
「とりあえずハウスワインでもどうです? 結構いいワインが飲めるんです」
 注文から程なくして、デキャンタの赤ワインがカウンターへ置かれた。デキャンタの表面にはうっすらと水滴がつき始めていて、よく冷やされている事が窺える。
「普段は外で飲んだりはされますか?」
「まあ、時々ですね。どちらかと言えば、うちで飲む事の方が多いです」
「帰りが遅いと、キョウコさんに叱られますか? やっぱり」
「いや、そんなんじゃないですよ。二人で外へ飲みに行くと、時々キョウコが未成年だと思われる事があって、それで家飲みが多いだけです。あいつ、未だに高校生ぐらいに間違われる童顔ですから。通い慣れた店ならいいんですけど、本人も多かれ少なかれ気にしてますからね」
「女性は若く見られる分には構わないものだと思ってたんですけどね。まあ、確かにお酒を飲むのにいちいち年齢確認されるのも、煩わしいと言えば煩わしいですから」
「それに、あいつの料理も美味いもんですからね。リクエストすれば、なんだかんだで大概のものは作ってくれますから」
「じゃあ、逆にキョウコさんにしっかりと胃袋を握られている感じなんですね」
「まあ、そんなとこですよ」
 出されたグラスワインは思った以上に飲みやすく、空腹の割にあっという間にグラスを一つ空けてしまった。ワインは酸味があって、口に含んだ時にぎゅっと舌を縮こませるものだけれど、このワインは風味が爽やかなのと後味がすっきりとしているため、悪い余韻がほとんど残らない。その飲みやすさについつい釣られてしまい、デキャンタからもう一杯グラスを満たす。
「ところで、つかぬ事をお聞きしますが。ナノマシン化すると、見た目が老けないって本当なんですかね? キョウコはそう思ってるみたいなんですよ」
「まあ、一概に違うとも言い切れはしませんね。海外でも同様の報告はあるにはありますが、データ数が絶対的に足りませんので、結論は何とも言い難いところです。何と言いますか、無責任な話、ナノマシン化の技術はこれだけ一般に広まってはいますが、実は分からない事が非常に多いんですよ。中でも特に厄介なのが、あれ。職業柄、御存知だとは思いますが、ナノマシンと薬の飲み合わせとか相性ですね」
「ええ、分かりますよ。ナノマシン化していると、同じ薬でも違った効果が出たり、危険な副作用が起こったりもする奴ですね。本部からも注意喚起の情報は毎週来ますし、自分でも個人的に勉強して注意しています」
「しかし実際、どうして薬の効能が変化するのかは未だ解明されていないんですよ。どういう訳かこういった効果になるから、そういうものだと割り切って対処する。それをパターン化する。昔の麻酔と同じですね。理屈は分からないものの、結果はデータとしてあるので、それを正解としてマニュアルにする。こうして聞くと、意外といい加減なものなんですよ」
「私は、そんないい加減なものを執拗に要求してあなたを困らせていた、厄介な患者という事になりますね」
「そう言わないで下さいよ。いや、実際そうなんですけどね」
「ハハッ、本音が出ましたね。お酒のせいかな」
 デキャンタのワインが無くなる頃、ようやく注文していたパスタが運ばれる。
 緑色のソースに小さくカットしたジャガイモが二つ添えられている。これと同じものは前に一度どこかでキョウコと食べた事がある。
「確かジェノベーゼでしたっけ」
「ええ、その通りです。ああ、松の実の良い香りがしますよ」
「松の実? どんな香りなんですか? よく分かりませんが」
「材料に使ってるんですよ。まあ、気分です、気分」
 実際の所は香りなんて分からないのだろう。考えてみたら、俺もまだ生まれてこの方本物の松の木なんて見たことがない。
 担当医が勧めるだけあって、このジェノベーゼは思っていたよりもずっと美味い逸品だった。別段派手な味付けや食材を使っている訳でもなく、見た目よりも質素で素朴な味わいである。それだけに、素直に味わえるのだろう。一食分にはやや少ないが、味に対する満足感が強いのだろう、十分に食べたという感想が沸き起こってくる。
 空腹も満たされた事で、次はウィスキーを注文する。こちらもあまり造詣が深い訳でもなく、種類は担当医に任せ、そして担当医はバーテンダーにお勧めのものを注文した。特にウィスキー党という訳でもなく、いつもこうやって勧められるものを飲むそうだった。そしてこの店は、未だに外れのウィスキーを出した事が無いという。
「ところで、例の告知の件ですけど。時期について、見通しは立っているのですか?」
「うん、まあ、まだちょっと。色々と調整中でして」
「私にも関係あることなのですから、早めにお願いしたいもんです。こう、はっきりしない事をいつまでも抱えたままというのはストレスが溜まるものですから」
「すみません、善処します」
 申し訳なさそうな担当医の表情に、つい語気を強め過ぎたかと反省する。せっかく誘ってくれたのに、わざわざこの問題を蒸し返して空気を悪くするべきではない。俺はこれ以上はこの話題は出さない事に決める。
「さて、もうちょっと何か食べてみませんか? 実はもう一つ、お勧めがあるんですよ」
「丁度また小腹が空いてきた所ですよ。それで、そのお勧めとは?」
「特製のビーフシチューです。美味いんですよ、ここのは」