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 帰宅したのは十時前と比較的早い時間帯で、キョウコはパジャマ姿でヨーグルトを食べながらテレビを見ていた。薄いピンク色の柄で、本来の年齢に照らしてみれば、やや幼いデザインではある。ただ、キョウコが着ているとあまり違和感は無く映る。
「お帰りなさい。何か食べますか?」
「いや、食べてきたからいいよ」
「夜にラーメンは体に良くありませんよ」
「違う違う、駅の立ち食いそば屋だって」
 自室に入り、鞄を置いて服を着替え、またすぐに部屋を出る。着替えるとは言っても風呂にすぐ入るのだから、下着姿になるだけだ。こうやって平気で下着姿でぶらふらと歩いている辺り、まるで熟年夫婦の様相である。まだ籍も入れていないというのに随分慣れきったものだなあと、つい思ってしまう。
「なあ、ところでさ。ビーフシチューって作れたっけ?」
「ビーフシチューですか? レシピを見ながらには、出来ないことも無いですけど。やっぱりお腹空いたのですか?」
「違うって。ただ、前に誰かに作ってくれたのを食べたような気がするんだよな。多分、熱が出た時だと思うんだ」
「さあ、私にはちょっと覚えがありませんね。お粥とか鍋焼うどんとか、もっぱらそういうのですし」
「だよなあ、やっぱり」
「それより、いつまでもそんな格好ですと風邪を引きますよ。早くお風呂に入って下さい」
 はいはいと軽返事をしながら、リビングから浴室へと退散する。
 今の返答からして、やはりビーフシチューを過去に作ってくれたのはキョウコではないようである。それに、うっすらと残るこれは、多分もっと前の事だったような気がする。だが、記憶がそこまで曖昧になるような幼少でもないと思う。断言する根拠はないのだが、それなりの年の頃の話だと、何故か思うのだ。大体学生時代辺りから前の記憶はほぼ無いに等しいが、辛うじてだが残っている辺りは、俺はビーフシチューについて何か強い思い入れがあったのかもしれない。
 風呂から上がりリビングへ戻ると、キョウコは台所でヨーグルトのカップを洗っていた。そのまま捨てるとゴミ箱が臭うからと、俺も決まって同じ事をさせられる。どうせ捨てるのだから気にする必要はないと思うのだが、キョウコは俺と違い細かいところまで気を使う、要するに神経質なのだ。
 それを横目に、冷蔵庫を開けて中から冷たい麦茶を出すと、タンブラーへ勢い良く注いで一気に飲む。風呂上がりの火照った体に、よく冷えた麦茶のたまらなく冷たい刺激が走り、身悶えする。うっすら後頭部に刺すような痛みさえ走ったが、それが麦茶の冷え具合を表しているようで尚更気持ちが良かった。しかし案の定、キョウコはそんな俺を眉をひそめながら見ていた。
「そんなに一気に冷たい物を飲むものじゃありませんよ」
「大丈夫だって。別に腹なんか壊さないよ。それに、こうやって冷たいのを飲むと落ち着くんだよ」
「どうしてですか?」
「車だって冷却液入れるだろ。なんせ今は風呂上りでオーバーヒートしているからね」
「人間と機械を一緒にしないで下さいよ」
「まあ、なんて言うかさ。俺は熱っぽい体質だから、こういう冷たい物を本能的に欲しがるんだよ。余分な熱を差し引きするためにさ。熱を下げるのに氷枕をするのだって同じ理屈だろ?」
「違いますよ。それはともかく、飲むにしてももう少しゆっくり飲むようにして下さいね。子供じゃないんですから」
 そういう切り込み方をされると、どうにも言い返せない。麦茶の飲み方ぐらいで子供扱いされても、俺は別に何とも思わない。気にせずもう一杯タンブラーへ麦茶を注ぐ。
 キョウコがいちいち人の健康がどうと口を挟むのは、俺がしょっちゅう熱を出すからだろう。キョウコの中で俺は不健康で病弱な人間という位置付けになってしまっているのだ。だから心配する気持ちは分かるし、確かにキョウコの方が年上だけれど、これではまるで母親と子供のような関係である。もしかすると俺の母親は、案外キョウコに似ていたのかも知れない。
「今日は先生とは何かあったのですか? 一緒に飲みに行くなんて初めてだったと思いますけど」
「そう言えば、そうだったかな。別に大した事ないよ。普通に飲んだだけ。女の子のお店にも行ってないから安心して」
「そんな意味で訊いたんじゃありません」
 キョウコは口を尖らせて反論する。そう簡単にムキになった辺り、案外図星だったのかもしれない。
「冗談だって、怒るなよ。変わったことと言っても、ちょっと症状の話とかしたくらいさ」
「症状?」
「先生は何でも、俺に告知したい事があるんだと。それを少し前に言われたんだけどさ、まだ全然進展なし。どっかの誰かの許可が必要なんだと」
「それで今日は誘われたのですか」
「どうかな。こっちの様子見のような気もしたけど。まあ、俺が昔の記憶が無い事も関係してるらしいし、早くやってくれっては思うけどね。どんな内容であれ、このまま生殺しはキツいからさ」
「イサオさん」
「ん? なんだ?」
「告知の話、私にするのは三回目ですよ」