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 何となく漂う気まずさから言葉数が不自然に減ってしまった中、担当医が見舞いに持ってきた洋菓子とコーヒーで何とか場を凌ぐ。まるで自分が用件をすっぽかしてしまったかのような気まずさだ。
 俺は、何かここ最近の事まで忘れてしまっているらしい。先日だったか、キョウコに全く同じ話を三度も繰り返した事を指摘され、思わず愕然としてしまった事を思い出す。人間歳を取れば誰でもそんな事をするものだが、俺の場合は単なる物忘れとは様相が違っているように思う。忘れたというよりは、すっぽりと抜け落ちたに近い。人間の記憶とは、そんな簡単には完全に消えたりしない。それが日常的に起こり始めた事に、一抹の不安を覚え始めたのだ。そう、確かそれを漠然とした文章にまとめた、そんな覚えが僅かにある。
 メールの事はともかく、やはり昔ではない最近の記憶が時折すっぽり抜け落ちる事を担当医に相談するべきではないだろうか。今は二人きりで居るのだから、何も恥ずかしがったり遠慮する必要も無いはずだ。
 こういった空気が続くのはあまり良くはないから、何か話し始めよう。そう決心するのも束の間で、不意打ちのように担当医の方から話しかけられた。
「あの、アクツさん」
「はい?」
「どうしてこの病院へ続けて運ばれたのか分かりますか?」
「は?」
 おかしな事を訊くものである。担当医の問いに首を傾げずにはいられなかった。
「単に距離の問題でしょう? それと、空きベッドの数とか、そういった事情もあるでしょうし」
「いえ、区立病院はどこも満床率は九十を超えてますよ。大概は受け入れは拒否されます」
「はあ、そういうものですか。じゃあ何故なのです?」
「実はここの病院、院長が私の父なのです」
「え、父親なんですか? あなたの?」
 随分意外な理由である。いやそれよりも、実は、と前置きをして話したが、それは今まで理由があって隠していたという事ではないのだろうか。それとも、単に話す機会が無かっただけなのか。
「驚きましたか?」
「まあ、少し。えっと、それはつまり、先生の縁故の口利きで私のベッドが安定して用意されているという事で、私は感謝すべきという事なんでしょうね?」
「口利きは事実ですが、感謝されるほど仰々しいものではありませんよ」
 謙遜だろうか。しかし、その割に表情が相変わらず冷たい。何か思い詰めているようにも見える。
 会話が途切れ、また気不味い空気になる。どうにも和気あいあいと会話を弾ませる事が出来ない調子だ。もっと意識して、話題を明るい方へ持っていかなければならない。
「そうだ、思い出した」
「えっ、何をですか?」
「いや、大したことじゃありませんよ。ほら、以前に先生とこの診察で話した事です。先生が実は学生の頃はちょっとヤンチャしてて、大学には二浪して。確か実家が医者の家系とも言ってましたよね。だから父親がこういう所の偉い人だってのも頷けるなあと」
「まあ、実際勤務医の給料では、病院の開業資金なんて出せませんからね。融資も難しいでしょうし」
「自分で開業する事には何か言われなかったんですか? ほら、親としては何となく自分の手元に置いておきたい心境があると思いますから」
「そこら辺は割と放任主義ですからね、うちの親は。そうでなければ、小さい頃から子供だけの家を平然と何日も空けたりしませんよ」
「なるほどねえ。医者ってイメージからなんですけど、何となくもっと厳格で怖い父親を想像してましたよ」
「そうですか」
 話の食いつきから一転し、担当医の声のトーンが一気に落ちる。俺の振った話題には興味があったものの、期待した展開にはならなかったというのだろうか。だが、別段おかしな事を言ったつもりはない。それに、一般的に話す父親像なんて、大概は厳しいか優しいかのどちらかだと思うが。
「すみません、ちょっと悪く言い過ぎました」
「いえ、そういうのではないんです。ただ……」
「ただ?」
「その……本当に、覚えていないんだなあって……」
「はい?」
 意味深な言葉、いやそれ以上に最後の口調の砕け方が無性に気に掛かった。担当医との付き合いはそれなりになるが、あんな砕けた口調を向けられたのは初めてである。一年や二年の付き合いの相手にするような口調ではない。いつの間にこう慣れ親しまれたのか。特別他人への礼儀などにはうるさくはないものの、唐突に親しまれるのは何やら薄気味悪さを感じてしまう。
「あの、どういう意味でそれは」
「いえ……何でも」
 そう否定するや否や、担当医の目からは涙が一筋こぼれ落ちた。俺は信じられない物を見るような気持ちで息を飲む。
 何故泣くのだ、大の大人がこうも簡単に。そこまで俺は酷い事を言ってしまったのか。だったら泣かずとも、すぐに抗議すれば良いものを。
 目の前で起こる出来事の辻褄を合わせられず、俺はベッドに座ったまま唖然とし固まってしまう。そんな時だった、突然病室のドアがノックされると、こちらの返事も待たずに中へ誰かが入って来る。一人はキョウコで、随分と厳しい表情をし、思わず軽口で返事をしようとした口を躊躇ってしまった。そしてもう一人、キョウコの後へ続いたのは初老の男性。
「アクツさん?」
 キョウコと共にやって来たのがアクツ氏である事に、少なからず驚いた。多からず連絡は取り合っていたものの、まさかこんなに早くにわざわざ見舞いに来てくれるなんて。嬉しさと恐縮が込み上げる反面、アクツ氏の態度が少しおかしいように思った。一度こちらに視線を向け会釈するものの、それきり露骨なほど視線を背けて口を開こうとしない。元々寡黙な印象があったが、そういった類とは別物だろう。見舞いに来たのでは無いのではないか、そんな風に思える仕草だ。
 キョウコもキョウコで何時になく硬い表情をし、ただの見舞いとは思えない様子である。アクツ夫人を除いたこの面子、何か普段とは違う妙な緊張感を漂わせている。どことなく自分も身を正さなければいけないような気にさせられる。
 何かが起こる。そう思った直後、俺の前に立ったのはやはり担当医だった。
「明津功さん、良く聞いて下さい。これからあなたに、告知を行いたいと思います」