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 それは、一体どういうことなのか。
 あまりに予想外の告白に、俺は完全に言葉を失い半ば放心していた。だが担当医は、こちらの理解が追い付くのを待たず、更に話を続ける。まるで堰を切ったように話急いでいるように思えた。
「キョウコさんが、いえ、姉貴とあなたが知り合ったのはそんな最近じゃないんです。同棲にしたって、それは大学に進学した時にはもう始まっていたんですよ。それが、コルチレートのせいで徐々に忘れてしまっていって。その辻褄を合わせるために、記憶がどんどんねじ曲がるんです。それがどれだけ恐ろしい事か。私は、それを間近で見て、痛感しています。ずっと、本当に辛かった。自分の幼なじみが、徐々に別人のようになっていくのですから」
「いや、その、ちょっと待って下さい。姉弟って、それは本当の事なんですか? キョウコからは弟の話なんて一度も聞いた事はありませんよ」
「そうですよ。そりゃ、そうです。言える訳がないでしょう? まるで覚えてないのに、言った所でどうなるんです。記憶が余計混乱するだけです」
「しかし、疑う訳じゃないんですけど。私はキョウコの事は今もこうして覚えています。どうしてあなただけを忘れてしまうのです?」
「姉貴がそれだけ、忘れさせないように骨を折っているからです。それでもあなたは、いっちゃんは、昔の事はみんな忘れてしまった」
 担当医はこれまでとはまるで別人のように、強く早口で、言葉を次々に畳み掛けてくる。口調は徐々に普段の穏やかで真面目なものからかけ離れ、感情を剥き出しにしている。
 何故大の大人が、顔を真っ赤にし涙を流しながら、こうも冷静さを欠いて訴えるのか。彼が言わんとしている事は理解出来るが、俺にはとても実感が湧かず、他人事のようにしか聞こえなかった。随分な温度差がある。これを薄情と呼ぶべきか、冷静と呼ぶべきか、担当医のあまりの気迫に俺はしばし迷った。
 すると、
「恭平、私にも少し話させて」
 これまで、俺とは視線も合わさず無言を貫いていたキョウコが、おもむろに口を開いた。そっと気遣うように担当医の肩へ触れ、未だ涙をぼろぼろとこぼす彼を優しくなだめる。その仕草は、とても他人にするもののようには思えなかった。咄嗟に嫉妬すらしてしまった。二人の間にはさほどの接点などなかったはずなのに。そんな主観がぐらりと揺らぐ。
「イサオさん、突然の事で戸惑っていると思いますが、恭平の言った事は全て事実なのです。まずは、そこから受け入れて下さい」
「受け入れろって言われても。本当に、姉弟なのか? それに俺とも幼なじみだって」
「本当ですよ。もっとも、私と遊んだのは小学生くらいまでがほとんどで、後は専ら恭平と遊んでいたのだけれど」
「遊んだって……俺は昔の事を思い出せないんだから、そうは言ってもすぐには……」
「それでは、これならどうでしょう」
 キョウコはおもむろにハンドバッグの中から、一冊の古い小さなアルバムを取り出し、俺へ差し出した。何となくそこに何が収まっているのか想像がつき、つい受け取るのを躊躇ってしまう。きっと俺はこの中身を見たら、更に混乱してしまうのだろう。けれど、キョウコに真っ向から見据えられると、どうにもやらなければいけない雰囲気になった。
 手に取ったアルバムを構え、恐る恐る一枚目を開く。最初の写真には、学生服の二人が仲良く肩を組んでじゃれている姿が写っていた。どちらも、どこか見覚えのある顔立ちである。片方は間違いなく俺自身だ。やや幼さが残っているものの、面影が今と良く似ている。けれどそれを懐かしむ事は出来ず、ただ昔の自分はこうだったのかと思うだけだった。
「中学の入学式の時の写真です。見覚えはありませんか?」
「いや、別に……」
 写真の中の一人は、間違いなく俺自身の昔の姿である。そして隣の人物。これも見覚えのある面影の持ち主である。ただ、素直にそうだとすぐに認める事は出来なかった。
 アルバムのページをどんどんめくり進んでいく。アルバムに載っているほとんどの写真は自分と彼とのもので、時折端にキョウコが写っているのみだった。写真のキョウコはすぐに本人だと分かった。そう認めざるを得なかった。それは、俺と違って面影が残っているなど曖昧なものではなく、ほとんど今と変わらない姿で写っているからだ。キョウコは、そうなったのは事故で体のほとんどをナノマシン化したからと言う。きっとこの写真達はそれよりも前に撮られたものなのだろう。
 ページをめくるたび、アルバムの中の時間が少しずつ進んでいく。そのどれもが、俺にとって失われてしまった時間だ。驚いたのは、こんなにもはっきりと自分の事だと分かる写真ばかりなのに、それでも俺にとってどこか他人の写真を見せられているような気がしてならない事だ。担当医とキョウコの言っている事は、紛れも無い事実。だけど、頑なにそれを認めようとしないのは、やはり記憶がすっぽりと抜け落ちているからなのだろうか。
 やがてページの中の写真の雰囲気が様変わりをした。制服が変わり、風景もまた違ったものになる。写真の中の二人は共に背が伸びたように見える。そして、俺はうっすら色を変えた髪を伸ばし始め、もう一人は赤と青と半々に派手に染め上げている。そんな髪型の話を、俺は以前に聞いている。やはり俺と一緒に写る彼は担当医の昔の姿で、彼とキョウコと俺は少なくとも中学からずっと仲が良かったというのは事実、いよいよそう認めざるを得ない材料が揃いつつある。