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 翌朝になっても、蔵の中へ繋がれているお糸の様子は変わらなかった。普通なら一晩もすれば落ち着くという話だったが、今回はいささか症状が重いらしい。
 針阿弥は朝餉を戴いた後、早速蔵の方へ向かった。蔵の前では女中達が交代で扉の中を覗いている。憑き物に怯える反面、取り憑かれたお糸の様子への好奇心が沸き起こっているのだろう。人の好奇心は早々歯止めを利かせられるような物ではなく、仕方のない事と言えば仕方のない事なのだが、まかり間違えば雇い主の不幸を喜んでいる様にも見える。もしこれを中野彦二郎が見たら、どれほど落胆するものか。当初は一晩の宿と路銀をせしめることが出来れば良いと思っていたのだが、やはりこの状況はあまり長く続かせるべきではない。然るべく方法で正道へ戻すべきである。
 蔵の中へ入ると、お糸は昨日と同じく柱に括りつけられたまま座り込んでいた。自分の知る限りでは、昨日から水も食事も取らせてはいない。良仁が素直に応じるかも疑問だが、それ以前に家中の者が誰一人として怖がって給仕をしようとしないのだ。若い娘が飲まず食わずで一晩もすれば、流石に体に堪えるだろう。そう思いながら針阿弥は様子を窺ったが、気配に気づいて顔を上げた良仁はにやりと不敵な笑みを浮かべていた。
「どうだ、乞食坊主。夕べはあの糞に言ってやったのか?」
「呆れたものだな。少しはしおらしくなるかと思えば。良仁、腹は空いてはおらぬのか?」
「ああ、空いたさ。飯を食わせろよ。あつものも付けて」
「人に物を頼む態度では無いのう。いい加減、多少の礼節は弁えぬか」
「礼節だ? 厚かましくも見ず知らずの家に上がり込んで来て、寝床と飯をせがむ貴様の言い分とは思えんな」
 痛い所を突かれた。そう針阿弥は苦笑いを浮かべそうになり、緩んだ態度を見せてはならぬと表情を引き締め直す。
「見ず知らずの所へ上がり込んで来たのは、お前も一緒ではないか。誰に断ってお糸の体へ取り憑いたのだ? お糸の許しを得ての事か?」
「何も知らぬのだな、糞坊主め。俺がわざわざ取り憑いてやったのではないよ、お糸が呼んだからそれに応えてやったまで。だから俺がいつ出て行こうが俺の勝手だ」
「世迷い事を。お糸が進んでお前のような小悪党を招き入れるはずがなかろう」
「ほう、それをお糸に確かめた者は居るのか? みな、お糸はよう出来た娘だ器量良しだと囃し立てるばかりではないか」
「ならば、お主は一体お糸の何を聞いたと言うのだ? お糸に呼ばれたのだから、それに応じたのであろう?」
「ああ、そうだ。お糸はな、助けを求めていたのだよ」
「助け?」
 優しい両親に何不自由なく育てられたであろうお糸が、何故助けなど必要とするのか。これはまた、良仁の出任せであろうか。
「では、お糸は何に困窮していたと言うのだ?」
「その前に、今一度訊くぞ。お前、俺の昨日の言付けを確かにあの糞に伝えたな?」
「一応は。貴様のような妖物の戯言など真に受けませぬように、と断った上でな」
「それで、奴はどうした? 血相を変えたか?」
 ぎらりと良仁の眼光が鋭く光る。普段のお糸とはまるで別人のような、野生の溢れる凄みだ。
 確かに中野彦二郎は血相を変えた。辛うじて噛み殺してはいたが、その動揺は明らかだ。そして、言葉の出所を異様に気にしていた。身に覚えのない言葉なら、あそこまで気に病む必要はないはずである。不可解、そして不自然極まる言動だ。
 彦二郎の様子を正直に伝えるべきか、針阿弥は少しばかり迷っていた。正確に伝えた所で、かえって良仁を調子付かせる事になる懸念があるからだ。
「中野様は何も仰らなかったよ。で、それがどうしたのだ?」
「まあいい。お前らはそれが商売だからな。そうか、伝えたのなら後は待つだけだ。何、さほど時間はかからぬ」
「どういう意味だ?」
「時期ならもうそろそろだ。近い内に、中野の方から動くだろうという事だ。よく様子を観察すればすぐに分かるはずだ。物音や人目を異様に気にし出す。それを、突然と何の縁もないお前に触れられたのだ、今からでも周囲の目を気にし始めるに違いないぞ。結局、小心者が幾ら背伸びしても小心者のままという事だな」
「一体何が起こるというのだ? 中野様が何か為さるのか?」
「良く考えろ、売僧。憑き物の娘を出した家が、どうして未だに商売が真っ当に出来ていると思う? 彼奴の人徳とやらだけで、本当に商えると本当に思うのか?」
「良仁、一体お主は何を言っているのだ? 中野様は真面目な商いを続けてきたのだから、立派な大店を構えられるようになったのだ。その信用が今も続いているだけであろうが」
「良仁ではない、俺は天火明命だ! ここの糞に仏罰を与えに来た、天火明命だ!」
 そう怒鳴った直後、突然糸が切れたように良仁の体から力が抜け、がっくりと項垂れて動かなくなった。意識を失ったようである。おそらく、この発作が落ち着いて力が抜けたのだろう。針阿弥はお糸の体を繋ぐ縄を解いてやる事にした。
 縄を解きながら、針阿弥は良仁の言葉を何度も反芻した。これまでは一考の価値もない戯れ言と思っていたのだが、此処に来て少しずつ実情との整合性が取れた、妙な説得力を帯びてきた。
 確かに彦二郎は何かを隠しているような素振りがある。それも相当後ろ暗い事のようである。良仁はそれを知っているようだが、話の流れからするとお糸もそれを知っているのかもしれない。つまり、お糸は父親の後ろ暗い何かを見てしまい、それを誰にも言えずにいたのではないだろうか。
 これはあくまで憶測でしかないが、この仮設が正しいと主張するには、彦二郎の裏を暴いて公にせねばならない。だが、本当にあのような誠実で真面目な者に、そんな後ろ暗い面など存在するのだろうか。どうしても針阿弥は、そこが信じられずにいた。