戻る

「して、その中野屋はどうなったのだ?」
「さて、私はとんと存じ上げませぬ。私はその夜の内、中野彦二郎殿には会わずに抜け出してしまった故」
 これまでの話を全て投げ出してしまうその言葉に、弾正忠の眉がさも不機嫌そうに歪む。
「何故逃げたのだ? 中野彦二郎に引導を渡すのではなかったのか?」
「はい。そのつもりでおったのですが、成り行き上お糸へ先に話を打ち明けてしまった故、もう十分ではないかと思いました。我が子に己の暗部を知られてしまう事ほど、親にとって辛いものは無いはず。その上私が鬼の首級を獲ったかのように追い詰めては、あまりに酷。まして追いつめられるあまり、乱心の上刃傷の沙汰にでもなれは、私のような痩せ坊主にはたまりませぬ。私は餓えるのも恐ろしいですが、それよりも死ぬ事の方が恐ろしゅう御座います」
「死ぬ覚悟もなく、人の弱みに首を突っ込んだか。坊主が因果応報も知らぬ訳ではあるまいに」
「私は御武家様のように失う面目も御座いませぬ故、こう窮地になればこそ逃げの一手しか思い付きませぬ」
「坊主如きが、命冥加なものよ。悟りとは何とも縁遠いな」
「私は神仏よりも銭を信じております故」
 平然と言ってのける針阿弥に、弾正忠は小さく息を漏らし頬を震わす。弾正忠にとって、信仰は食べる手段と言い切る針阿弥は、行動の理由が明確であるため非常に好ましく思える存在である。建前の使い方を理解している人材は、織田弾正家の外交にとって重用に値するものである。兵力や財力を充分に持つに至ったとしても、未だ織田家は只の新興勢力でしかない事を理解しているからだ。
「さて、針。そのお糸とやらは、真に物の怪が憑いておったのか?」
「そのように私は思っております。お糸は神か仏か或いは魔か、強く助けを乞うあまり、己の中に不完全な某かを創り出してしまったのでしょう。私が良仁と呼んだあれは、それを形取ったものに御座います」
「では、神も仏も実在などせぬが、物の怪は実在すると?」
「はい。そして、物の怪とは人が作り出す物かと」
 ほう、と口元を綻ばす弾正忠。物の怪とは何処から湧き起こるもの、という定説から外れた説に興味を引かれる。
「人は、有れかしと強く願えば、叶う事が出来るのです。ただ、時に強過ぎる念というのは、己を変えてしまうほどの怪力を招きます。古来の豪傑や名手はそのようにして名を残してまいりましたが、それは理に適った良いものばかりとは限りませぬ。己の心情の善悪とは、己では分からぬものです」
「怪力など、所詮は凡骨の戯言よ。その狭い視野で理解出来ぬものをそう言い表したに過ぎぬ。世の中は明確な理にて動いているものだ」
「では弾正忠様は、お糸は狂言だったとお考えに?」
「若しくは、ただの物狂いよ。苦難に弱き心が耐えられなんだ事は珍しくなかろう。心が物を作り出すなど有り得ぬわ。念ずるだけで成せるなら、三間槍も鉄砲も要らぬ」
「その弱さにこそ、物の怪が付け入る隙になるかと」
「戯けが、もうよいわ」
 明らかに自分には相容れぬ言に弾正忠は、鬱陶しそうに手を払う。針阿弥はそれ以上の言及を止め、畏まり深々と座礼する。
「針よ、儂は比叡山を討つ。一切合切を灰にしてしまう。貴様には周囲の寺社へ奔走して貰うことになろう」
「やはり、お討ちになりますか」
「儂は神仏など恐れぬから、そう思うたか?」
「いいえ、僧が武家のしきたりに首を突っ込んだ以上、捨て置きはすまいと思っただけに御座います。ただの、因果応報にて」
「自分の乞食と同じとほざくか。なるほど、ならば見当はついたであろうな」
「されど、比叡山は由緒正しき本山でございます。そこへ兵を挙げたとあっては、各方面からの反発は避けられないかと」
「たかが、仏法を説きながら裏で銭と女子供を囲う売僧の巣窟ではないか。仏とやらが見ているならば儂が手を下すまでもないが、未だに天罰は下らぬ。反発が信徒共だけならば、反発する神仏など居らぬのであれば、何も躊躇う事は無い」
「天下布武のために神仏を、いえ、皆が神仏と呼ぶ物を無くする、という事でしょうか」
「否、あれは儂の天下に要らぬ醜きもの、それだけの事よ」
 浅井朝倉への仕置き戦略以前に、建前と虚言で人を操ろうとする者が心底嫌いなのだろう、そう針阿弥は考えた。慣例を捨て合理的にならなければ立ち行かない御家である以上、それは当然の心理である。しかし、その根底には何か理不尽さへの怒りが燻っているような気がしてならなかった。
「一つだけ、申し上げとうございます」
「何だ。言ってみよ」
「因果応報でございます。私が路銀欲しさに見栄を張ってしてしくじったのも、比叡山が武家の争いに介入し討たれるのも。善き事をすれば善き事が、悪しき事をすれば悪しき事が、己が身に戻って参ります。弾正忠様におかれましても、その理からは逃れられぬかと」
「いずれ儂も焼かれて死ぬ、とでも言いたいか?」
「憚りながら」
「ならば針よ、貴様もその応報とやらまで付き合うて貰うか。それ見たことかと喝采するのはどちらか、一興ぞ」
「お望みとあらば」