戻る

「おっ、見えてきたぞ見えてきたぞ」
 船の欄干に片足を掛け、身の丈もある竿をしなやかに引きながら、フェルナン大使は年に似合わず少年のような嬌声を上げる。
「サイファー君、早く網を持って来たまえ」
「はい、分かりました」
 俺は、予め用意しておいた柄の長い取り網を構え、フェルナン大使が糸を垂らしている付近へ網を差し伸ばす。天気は快晴で波は凪だが、海面の抵抗は網に強く掛かってくるため、うっかり波に取られてしまわないように柄をしっかり握る。
「来たぞ、来たぞ、来たぞ。ほら、白い腹が見えた! ようし、良型! こりゃ、凄い大物だ」
「そのようですね」
 嬉々とはしゃぐフェルナン大使に対し、俺は淡々と受け答える。正直な所、疲れと飽きが一片に頂点に達していて、もう付き合い切れないという気分だった。しかし、これも一応業務の一つだと思い、本音を直隠しにする。
「よし、出て来るよ。しっかりとすくい上げてくれたまえよ」
 フェルナン大使が最後のリールを巻きにかかり、竿を激しく引くのを繰り返す。海面にうっすらと見えていた魚影は、でたらめな円形を何度も描きながら徐々に海面へ昇っていき、はっきりとその姿を表していく。
「よし、今だ!」
 掛け声と同時に、俺はその、魚影を構えていた網で捕らえる。すると、魚が網の中で激しくのたうち回り、その力強い揺れが肩まで伝わってくる。俺は柄を握る手に、更に力を込めた。
「すくったね? よしよし、引き上げてくれ。そう、慎重にだよ。慎重に」
 のた打つ魚に注意しつつ、網の柄をゆっくり慎重に手繰り寄せていく。程なく網は船中に辿り着き、いよいよ釣果との対面を迎える。
「おお、これは凄い。見てごらん、この綺麗な暗色の鱗に銀色の腹! いやあ、流石に北方の魚は見事だ。アスルラでは、こんな大きな魚はお目にかかれなかったからね」
 網の中から慣れた手付きで魚を取り上げ、満足げに眺め回すフェルナン大使。釣り上げた魚は、時折のた打って水しぶきを飛ばすが、それで濡れる事をまるで気にも留めない。
「サイファー君もやってみるかね? 面白いよ、これは。覚えたら病み付きになる」
「いえ、私は結構。気が短い気質なので、あまり向いていません」
「おや、意外だね。ま、確かに君は突然カッとなる所もあるからねえ」
 そう笑いながら、満足したのか魚を俺へ手渡し、自分はデッキのイスへ腰を下ろす。そして、飲みかけだったワイングラスを一気に空けた。
「さて、そろそろお茶の時間かな。クレイグ君達を呼んできてくれ。ああ、その魚は厨房に。今夜のメインディッシュだ」
「メニューは何に?」
「そうだねえ、塩釜焼きがいいね」
 承知しました、と慇懃に挨拶し、内心ではようやく解放されたかと安堵しながら、デッキを後にした。
 船内を下りながら、まずは厨房を目指す。
 この船は、フェルナン大使が個人で所有している物で、とにかく広く大きいため、船内を移動するだけでも一苦労である。生活に必要な設備は何でも揃っており、航行中も普段通りの生活が出来る。そのため、時折自分が船に乗っている事を忘れてしまう程だ。貨物も相当な量を積めるようだが、その反面足は遅く、目的地まで通常三日の航路に五日かかってしまう。小回りの利かなさが原因らしいが、ならば複数の小型船に分ければいいのではと思う。如何にも金持ちが建造した船だ、と正直な所は半分呆れている。
 厨房へ魚を届け、例の塩釜焼きの事を伝える。厨房にはフェルナン大使お抱えのシェフと、その部下達がずらりと揃っている。どこか高級ホテルなりレストランを構えるなりした方が、遥かに割が良いと思うのだが、彼らは彼らでフェルナン大使を信頼しているらしく、そういった事は考えていないそうだ。
 お茶の用意を伝え、次にクレイグ達の所へ向かう事にする。その途中、喫茶室へ向かうらしい三人の女性と会った。
「あら、サイファーさん。お疲れ様。あの人から、ようやく解放されたの?」
 そう話し掛ける年長の女性、彼女はフェルナン大使の夫人であるルイーズだ。
「ええ。大きな魚を一つ、先程ようやく釣り上げた所です」
「そう、あなたも朝から大変でしたね」
「いえ、いつもの事ですから」
「私は、もっとはっきり断るべきだと思います」
 と、断言口調できっぱり言い切ったのは、年少の女性。そう呼ぶよりも、まだどちらかと言えば少女の域だろう。だが、表情といい弁の立ち方といい、随分と大人びている。
 彼女はアーリン、フェルナン大使の二人目の夫人との間に産まれた子供である。ルイーズとは親子ほどの歳の差がなく、姉妹のような関係に近い。二人の仲は良好で、フェルナン大使に振り回される者同士という仲間意識があるようである。
「サイファーさんは、少し甘いと思います。雇い主だからと言って、遠慮する必要はありませんよ。公私のけじめくらいはつけさせないと、更に増長します」
「まあ……出来るだけ頑張ってみます」
 フェルナン大使のようないい加減さは苦手だが、アーリンのような折り目正し過ぎるタイプもあまり得意ではない。言っている事は正論であるにせよ、実行に移すにはなかなか勇気の要る事である。
「あの、あまり無理はしないで下さいね」
 最後に遠慮がちな声を掛けてきたのは、どこか気恥ずかしそうに上目づかいをする女性。彼女はルイ、歳もアーリンと二つか三つくらいしか変わらず、やや幼さが面影に残っている。だがこのルイは、やや歳の離れた俺の妻である。半年前に結婚したばかりだが、このような仕事の都合上、未だ新居も構えていない。そろそろ愚痴の一つも出て来るだろうと恐々としているが、幸いにもまだ許容範囲内なのか、そういった兆候は見られない。
「今日もまたお仕事がありますの?」
「ええ。明日にはアクアリアに着きますし、外交戦略の確認があります」
「そう。たまには皆さんと、お茶を御一緒したかったのですけれど。あの人では難しそうですね」
「一応、お伝えはしておきますよ」
 三人と別れた後、執務室へ向かう。
 執務室は、この広い船内の中でも一際広い部屋である。室内にはあらゆる書類やファイルが所狭しと並び、その真っ只中では二人の男が忙しなく業務に取り組んでいる。
「クレイグさん、ハミルトンさん。閣下がお茶の時間だそうです」
「ああ、もうそんな時間ですか」
「大丈夫です、資料は揃っています」
 二人は腫れぼったい目を擦りつつ、デスク上のファイルを重ねて抱える。お茶の時間とは、基本的に打ち合わせを兼ねている。普段は予定の確認や懸案事項の対策などを話し合うのだが、今回は新たな赴任先となるアクアリアについて、その引き継ぎが中心となる。これまでの任地であるラングリスとは違い、アクアリアは北方を代表する大国である。その業務量も桁違いで、この数日は二人とも終日こんな調子である。
「御多忙のようですが、私も微力ながら手伝いますよ?」
「いえ、サイファーさんは引き続き閣下のお守りをして下さい。その方が、仕事も捗って助かるんですよ」
 そう答えるのは、大使の公設秘書であるハミルトン。彼は私設秘書の俺とは違い、国に雇われている高級外交官である。今回の赴任に当たり、大使がどこからか強引に引き抜いてきたそうだ。そのため、傍目からも非常に優秀な人物と分かる。
「今は閣下の遊び相手が仕事と思って下さい。それに、閣下にああも日長付き合える人間なんて、今まで何人も居なかったんですよ。サイファーさんが適任です」
「はあ、そういうものですか」
 苦笑いしながら話すのは、クレイグ二等書記官。彼とはラングリス時代からの付き合いで、今回の異動を機に領事館補から書記官へ昇進している。大使とは一番付き合いが長いそうだが、そんな彼を持ってしてでも大使の暇潰しに付き合うのは勘弁願いたいようである。そんな厄介事に無意識の内に慣れ始めている俺は、あまり喜べない適性があるのだろう。本当は、大使のお守りから解放されたかったのだが。
「では、参りましょうか。大使にはアクアリアのあの件について、対応方法を決定して戴かないといけないですし」
「本当に、酷いタイミングですよ。着任早々ですから」
 二人はぶつぶつと眉をひそめながら、そんな事を愚痴っぽく話す。どうやら厄介事がまた回って来た、そんな事を直感する。
 大国の大使館付きになるとは言え、どうやらまだ楽はさせて貰えないらしい。