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 デッキの上は潮風が強く、とてもゆっくりお茶会など楽しむような環境とは呼べない。だが、ファルナン大使はイスに座ったまま得意気に足を組み、波間を眺めながらお茶を楽しんでいる。出航前に随分浮かれていると思っていたが、やはり久し振りの海で気持ちが舞い上がっているのかも知れない。普段は仕事上拘束されてばかりだったから、こういう場所では開放的になるのだろう。しかし、打ち合わせとお茶会は別々にして貰いたいものだ。
「それで、アクアリアの件はどうなったかな?」
「はい、主だった情勢や産業等について、全てまとめ上げました。概略はこちらのファイルを御確認下さい」
「結構。となると、後は例の件になるかね」
「ええ、そうなります」
 ハミルトンは、別に編集したらしい黒いファイルをテーブルの上へと広げる。大使はゆっくりとそちらへ向き直ると、ファイルを一頁ずつめくりながら時折真剣な眼差しを見せ始める。
「あちゃあ、陸軍が動いちゃったんだね」
「はい。先週末、突如ストルナ市へ進軍してそのまま駐在しています。町は半戒厳令状態、商業等の一部流通が最低限許可されているのみで、人の出入りは特に厳しく制限されています」
「総領事館の方は?」
「今の所、業務に目立った支障は無いとのこと。ただし」
 ハミルトンはファイルの表紙についたポケットから、一通の便箋を取り出して見せた。それはセディアランドの刻印があしらわれた、大使館でも使われている通信用の便箋だった。しかし便箋の最下部には、真っ赤なインクで検閲済みと記されている。
「なるほど。どこまで本当かは信用が出来ないという訳だね。アクアリア政府の方は?」
「ただひたすら、申し訳無いと拝み倒すばかりです。どうやらこの進軍は、陸軍の独断のようですね。海軍が黙認している所を察するに、軍部そのものがグルではないかと思われます」
「これってさ、クーデター寸前だよね。いやいや、参ったなあ。どうして寄りによって僕が赴任する時に、こんな事になるかなあ」
 大使は深く溜め息をつきながら、目を細めつつファイルをそっと閉じた。
 事の発端は、半月ほど前まで遡る。
 アクアリアの地方都市ストルナ、そこにあるセディアランドの総領事館内で事件が起こった。詳細は不明だが、ともかくアクアリア国側の人間が一人死亡した。その事について、セディアランドに対する対応が政府と軍部で真っ二つに分かれたらしく、結果としてストルナ市の軍事占拠を引き起こしたと考えられる。
「軍部の声明は?」
「存在はするようです。ただ、よほどセディアランドを刺激するような内容なのか、政府が頑として公開しません」
「発端の事件の詳細も分からない状況けど。取り敢えず、当面の問題は彼だね」
「ええ。公使参事官のリチャード氏。彼はまだ総領事館内へ居るようです。流石に身柄は無事だとは思いますが」
 総領事館内が町ごと包囲されているのであれば、事実上の軟禁である。しかし、包囲するだけで武力行使を行わないのであれば、目的は単なる報復ではないのだろう。
「あの、万が一にも公使に手を出したら、それは開戦の口実になるという事ですか?」
「ああ、そうか。サイファー君は知らなかったのだね。説明してあげなさい」
 促されたハミルトンが、別の赤いファイルを片手に構える。
「リチャード氏は、セディアランドでも名門中の名門、レイモンド家の御曹司です。彼の祖父は大統領経験者、父は鋼鉄業界の重鎮、その他一族も全てが一角の経歴を持っています。それと、リチャード氏は公使ではなく公使参事官、公使に相当する参事官です。対外的には同じと考えて構いませんが、内部ではくれぐれも間違いませぬように」
 ともかく、リチャード氏は名家の出身であること、セディアランドの公使相当の身分であること、この、二つだけは押さえておかなければいけない事だろう。
「理由如何に寄るけれど、何にせよそういう経歴の人だからね。もしもの事が起こってしまった場合らセディアランドとしては一戦交えるのもやむなし、という風潮になるだろうね」
「仮にそれが公使参事官でなくとも、という事ですか」
「そう、肩書きよりも、レイモンド一族の本家筋というのが問題だね。レイモンド社は、西部の金鉱利権で北方企業と対立しているからね。あの業界の古老は、やたら血の気が多いし。まず、穏やかには収まらないよ」
「となると、我々はまずリチャード氏の安全の確保を最優先にするという事ですね」
「そういう事だよ。という訳で、早速だけど。アクアリア大使館に着いたら、サイファー君にはやって貰う仕事があるんだ。ちょっと出張になるけど」
 これまで一度として耳にする事の無かったそのフレーズ、ようやく仕事らしい仕事を任される事になったかと、俺は思わず顔を綻ばせそうになった。
「ええ、勿論それは構いません」
「よろしい。では、ちょっとストルナ市まで行って、詳細を調べてきて貰えるかな」
「ストルナ市へ直接?」
 俺は彼の私設秘書という立場のはずである。敵地への潜入捜査とも取れるそれは、とても秘書の仕事の範疇とは思えないのだが。
 そんな逡巡を見せる俺に対し、更に言葉を畳み掛ける。
「そろそろ、僕の子守りも飽きたでしょう?」
 にんまりと唇を歪め、さもこちらの意表を突いてやったと言わんばかりの不敵な表情。俺はただ動揺を隠すべく、ぎこちなく苦笑いを作るばかりだった。
 陰口を聞かれていたか、知られたのか。
 俺は素直に了承するばかりだった。