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 食事後、同じ敷地内にある宿舎に用意された客室へ戻ると、しばらくの間は状況を整理して手帳にまとめる作業に没頭した。それが大方終わった頃、そっと部屋を抜け出し旧館へと向かった。目的は、事件のあった中庭である。
 宿舎の外へ出ると、真夜中だというのに何人もの武官が敷地内を巡回していた。塀の外側からは、それ以上に大勢の話し声も聞こえる。彼らアクアリア兵に対する警戒なのだろう。
 旧館の中庭には、食堂の近くにあった通用口から入る事が出来た。小さな戸で鍵もかかってはおらず、誰でも自由に出入り出来る。おそらく、休憩用のスペースとして解放しているのだろう。
 中庭は、それなりに解放感が得られるよう広い作りになっていたが、庭作りは極めて簡素で最低限の遊歩道と植樹しかなされてなかった。おそらく来賓客は本館の方へ通すため、こちらは職員用にしか使わないのだろう。
 暗い遊歩道を歩きながら、当時の状況をあれこれと思い巡らし、周囲をくまなく観察していく。遊歩道の周囲は芝生になっていて、そこは手入れされているのか短く狩られている。中庭の敷地は旧館と必ずどこかしら面しており、窓もこちらを向いているのが少なくない。時折灯りを漏らしている窓も見受けられる。街灯はなく、たとえ窓から誰かが覗いていたとしても、はっきりとは見えないだろう。それに表と違って武官の巡回もない。予め人目が無い事を知っていたから、犯行が行われたのだろうか。
 気が付くと、来る時に通った通用口へ戻ってきていた。どうやらこの遊歩道は、中庭をぐるりと一周するように作られていたようである。
 これ以上、今夜は進展はしそうにない。俺は部屋に戻って、今夜はもう休むことにした。気温も下がってきているし、旅の疲れもある。明日はクレメントに時間を取ってもらい、これまでに判明している事件の経緯を説明して貰う事になっている。彼も忙しい身なのだから、こちらもきちんと体を休めておいた方がいいだろう。
 通用口を抜け、自分が来た宿舎の方角を確認する。そして足を踏み出そうとした、その時だった。
「この時分に、何用でしょうか?」
 突然声を掛けられ、驚きで足を止める。振り返るとそこには、クレメントの姿があった。
「ああ、すみません。中庭が現場だと聞いたもので」
「何故、このような夜更けに? 日が出てからでもかまわないのでは?」
「事件が起こったのは夜中と聞きましたので」
「そうでしたか。ですが、今は非常の事態です。何が起こるか分かりませんので、どうか不用意な行動は控えて頂きたい」
 無表情だが、威圧感のあるクレメントの語り口調。それはまるで、触れられたくない所に触れられ怒りを露わにしているように感じた。
 誰かに告げ口されたか、若しくは監視されていたのか。どちらにせよ、こうして直々に釘を刺しに来たと言う事は、あまり俺に自由には動いて貰いたくないようである。
「大変申し訳ありませんでした。もう、部屋へ戻りますので」
「そうですか。そうして下さい。では、明日に」
「ああ、そうだ。一つよろしいですか?」
「何でしょうか?」
「事件の加害者は今どうされているのですか?」
「当館のしかるべき場所に拘置しています」
「彼からも事情を伺いたいのですが」
「それも含め、経緯は明日に御説明いたしますので」
 きっぱりと、殊更強い口調でクレメントは拒否する。明らかにそれは不自然な態度だった。説明も無しに一方的に跳ね除けるなんて、むしろ疑念を持って欲しいと言っているようなものである。
「何故ですか? 事件の詳細を調査する以上、加害者の聴取は必要な事だと思いますが。それに、報告書にしても先にお伝えした通りです。そう警戒なさらなくとも結構ですよ」
「それでもまだ、あなたが本当に信用に値する人物かは判断しかねますから」
「機密を漏らすような事はしませんよ」
「とにかく、私の一存では決めかねる事ですから。公使にはお伝えしますが、期待に添えられるかは保証しかねますので。それでは」
 クレメントは早口にまくし立てると、一礼して一方的にこの場から去って行った。
 やはり、今回の事件はセディアランド側に非があると見て間違い無いようである。そうでもなければ、大使の調査をここまで頑なに拒む事はしないだろう。
 事件当日、現場では一体何が起こったのか。その概略すらも説明したがらないように、リチャードやクレメントの素振りからは感じられる。それはつまり、彼らが当事者か密接に関係しているかの理由があるからだろう。となると、加害者もまた彼らの一味と数えて良いのかも知れない。事件の詳細を隠蔽し有耶無耶にするつもりであれば、個人的な心情で語れば、絶対に看過はしない。けれど、セディアランドにとって不利になるような事はするなと釘を刺されている立場なのは元より、最も必要なのはアクアリア軍の撤退の実現である。仮に俺が我を通して事実を詳らかにした所で、結局は何も状況は変わらないし誰も得はしないのだ。
 流石にあの頃とは違い、青臭い理想論に突っ走るような真似はもうしない。それに、養う家族が居る以上は不用意な行動も慎めるようになった。全く意図していなかった唐突な結婚ではあったけれど、おかげで精神的には成長出来たのかもしれない。