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 翌朝、部屋の空気の刺すような冷たさで目を覚ました。アクアリアはセディアランドより遥か北の国であるため、多少は気候の違いを覚悟はしていた。しかしこの冷え込みは、この数日の中ではずば抜けたものである。
 毛布にくるまりながらベッドから這い出し、窓のカーテンを開けて外を見る。すると、窓の外は一面の雪景色となっていた。しかも雪は未だしんしんと降り積もり続けている。どうやら、昨夜就寝した後に降り始めたらしい。
 このままこうしていては、風邪を引いてしまう。俺は慌てて暖炉に火を灯し、お湯を沸かした。部屋が暖まるに連れ、窓ガラスにはふつふつと水滴が浮かび始める。外気との温度差のせいだが、ラングリスに居た頃はほとんど見られなかった現象である。ようやく自分が、これまでとは違う国へ来たのだという実感がわいてきた。
 沸かしたお湯を少し飲んで体を温め、残りで顔を洗ったり、かじかんだ手を解したりする。それでようやく人心地付くと、服を着替え部屋を後にした。廊下に出ると、再びあの刺すような寒さに襲われる。しかし、一度体を温めているせいか、目覚めの時よりは辛くはなかった。
 宿舎の外は、未だ雪が降り続いている。通行に必要な分には雪が掻かれているが、この調子で降り続ければ、それも元に戻るのは時間の問題だろう。どこを見渡しても、無数の雪の塊が降り注いでいる。この様を銀世界と表した者がいるが、実に的を射た言葉の表現である。
 雪の眩しさに目を細めつつ、旧館へと向かう。旧館の食堂は、丁度朝食を取りに来た職員達で賑わっていた。旧館は終日人の出入りがあるためか、廊下から良く温められていて、上着を着なくとも十分な程だった。食堂の中は更に熱気があり、いささか暑さも感じる。俺は少しばかり冷気が通る窓際の方へ席を陣取った。
 朝食は一律のメニューとなっていて、アクアリアの名物らしい魚がふんだんに使われたものだった。パンは固く、あまり精製されていない粉で焼かれたもので、黒っぽい粒と塩味の強さが特徴的である。スープの具は薫製したものがほとんどで、カブが乱切りで入っていた。果物はなく、代わりに乳製品らしいもので作られたデザートが付いている。全体的に味付けはやや濃いように思う。おそらく、気候のせいなのだろう。ラングリス出身のルイには、これはかなり塩辛く感じるに違いない。
 食事が済むと、腹ごなしに濃いめのコーヒーをゆっくりと飲み始める。ルイと結婚して以来、朝食は以前よりも多くしっかりと食べるようになった。その分、腹ごなしには時間がかかり、コーヒーの量も増えたように思う。朝しっかりと食べるのは健康に良い事ではあるが、その分朝食に掛ける時間が増えてしまった。
「失礼、大使私設秘書官のサイファー殿でしょうか?」
 二杯目のコーヒーを傾けながら、のんびりと外の雪景色を眺めていた時だった。不意に席の前に、一人の女性職員が現れ訊ねて来た。見たところ、この総領事館に勤務するセディアランド出身の外交官のようである。
「そうですが。あなたは?」
「申し遅れました。私は二等書記官のドナと申します。本日はクレメント理事官が急用のため、私が代理として参りました」
「そういう訳ですか。このような時勢ですし、多忙なのは仕方ありませんね」
 クレメントの代理と名乗る彼女は、クレイグとは違って固いタイプの書記官に見えた。歳はあまり変わらないだろうが、経験の密度が違うのかも知れない。
「では、早速お話をさせて頂いても宜しいでしょうか? 何分、内容が内容だけに、場所を移させて頂きたいのですが」
「ええ、それは構いませんよ。参りましょうか」
 ドナの先導で食堂を抜ける。彼女は旧館の階段を登って行き、連絡廊下から本館へと向かった。本館は、こんな時期なので来賓客はいないのだが、執務室などを行き交う職員が既に大勢いるため、旧館とは違ってピリピリした物々しい雰囲気に包まれていた。アクアリア軍の包囲のせいで業務がうまく回らないのだろう。それでも休む訳にはいかないのが、外交官というものか。
「どうぞ、こちらです」
 ドナに入室を促されたのは、本館の三階の一画に位置する、幾つもの執務室が並ぶ廊下の中の一つだった。部屋は外観通りの広さで、大使館の物に比べたら書類ばかりの地味な印象を持つ内装だった。執務室は来客の応対を兼ねるはずだが、そういった用意が乏しく、業務に必要な物ばかりが揃えられているように見える。
「どうぞお掛け下さい。この部屋は私の執務室ですので、お気兼ねなく」
 それはつまり、わざわざ他に人のいない所へ俺を連れ出して来たという事である。この事件には何か裏があって、他の職員の耳に入る事は極力避けたいのだろう。
「あなたの個室という事でしょうか。失礼ですが、あなたは二等書記官なのでは?」
「ええ、そうです。この部屋は公使から特別に与えられたものですから」
 普通なら、二等書記官程度の身分では個室を与えられる事は無い。よほど優秀な人間のため昇級に年齢が足りないか、何かしら私情が挟まれているのだろう。この世界では良くある話である。
「それではまず、事件の経緯を話して頂けますか」
「御承知済みとは思いますが、本件はくれぐれも内密に願います。国家機密として扱って下さい」
「分かっています。一切他言するつもりはありませんので」
 曖昧な表現を避けてきっぱりと断言したが、ドナは事務的な無表情で、安堵も疑いの色も一切が窺えなかった。初めから信用して貰えるとは思っていないが、このように胸中を見透かせない相手ではどういう前提で話を進めていいのか戸惑ってしまう。
 だから、彼女が寄越されたのだろうか。そんな事を邪推する。