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 その晩床に着いたのは、夜も更けて寒さが一層厳しくなる時間の事だった。
 遅くなってしまったのは、明日リチャードへ提出するレポートを仕上げていたためである。明日中にレポートの検閲を済ませた後、明後日には一度紺碧の都へ戻るつもりでいる。要請されれば引き続き使節役は務めるが、俺に出来る範囲の調査は十分に済ませたのと、それ以上は一介の秘書官では調べようがない事を大使へ伝えなければならない。事件の全容を知るのは、加害者であり駐在武官のジョエル唯一人。その彼が黙秘を続ける以上は、何らかの法的な手段が必要となる。俺にはそういった権限は無いのだ。
 レポートの内容は最大限リチャードに配慮したものにしているが、おそらく検閲は簡単に通るだろう。帰還の旨を伝えた際、あのメンバーは露骨に渋る様子を見せたが、リチャードは意外にもあっさりと了承してくれたからだ。決闘同好会の件は他言するつもりは無いが、あの面々がそんな俺を信用していない中、リチャードだけは信用してくれているのかも知れない。もしくは、俺が大使に一切合切打ち明けたところで、レイモンド家という後ろ盾がある以上、大事にはならない自信があるのか。
 何にせよ、俺にはこれ以上何か出来る力は無い。本来、ただの調査が目的でやって来たのだ。リチャードの経歴に傷を付けないようにする、そんな裏の目的も有りはするが、そんなものは決闘同好会の事を黙っているだけで十分達成出来る。例え公使と言えど、末端の武官の管理責任まで問われる事はないのだ。
 床に着き、しばらく目をつぶりながらあれこれと仕事の事を考え、そうしている内に眠気がやってきて意識が途切れがちになる。直前まで仕事をしていたせいか、頭が冴えてすぐには眠りに落ちてくれない。けれど、どうせ明日からは気を張る仕事も無くなる、眠る事を焦る必要はないのだから、そのままに任せる。
 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
 意識が途切れる時間が長くなり、時間の感覚が薄れ始めた頃、それは突然起こった。
『あああああっ!』
 何処からともなく、鬼気迫った叫び声が響き渡る。それに驚いてベッドから跳ね起きるのと、どすっという重い音が聞こえたのはほぼ同時だった。
 一体何事だ!?
 驚きで高鳴る心臓を押さえつつ、咄嗟に声が聞こえたような気がした窓の方を開け、周囲を目視する。夕方から降り始めた雪は止んでいるが風が強く、寝間着の身には非常に冷たい。それに悴むを堪えながら、周囲から僅かに漏れている明かりを頼りに、じっと目を凝らして見回す。すると、この寄宿舎のほぼ真下、本館へ続く道路の片隅に、明らかに不自然な黒い影が出来ているのを見つけた。それは、僅かに蠢いていた。そう見えるのは、夜の暗さと距離による目の錯覚かも知れない。けれど、直前に耳にしたあの叫び声と結びつけずにはいられず、その影が何なのかを俺は瞬時に推察した。
 俺はすぐに上着だけを羽織り、部屋を飛び出した。廊下には、俺と同じように寝間着だけの者が何人か訝しげな顔で部屋から出て来ていて、ざわつき始めていた。これだけの人間が目を覚ますほどの声だったのだから、やはりあの影の正体は俺の思い過ごしではない。
 裏口から外へ出て、角を一つ曲がる。現場は、丁度寄宿舎の裏側と物置小屋に挟まれた一角で、外からは非常に目立たない場所だった。俺の部屋から見下ろせる位置になるが、この時間では下に降りても視界はあまり自由にはならない。
「サイファーさんですか!?」
 耳やかましく風が吹き付けてくる中、何者かが誰何する声が聞こえてくる。よく目を凝らして見ると、雪の上に横たわるそれのすぐ側に、もう一つ別の人影があった。すぐさま駆け寄ると、それは青ざめた顔をしたドナだった。この時間まで仕事をしていたのか、服装は俺と違ってスーツのままだったが、よほど慌てていたのだろうか上着を着ていなかった。
「一体これは何事ですか?」
「分かりません。私は叫び声のようなものを聞いて、すぐさま駆け付けた所です」
「私もです。部屋の窓がこちら側だったので。しかし、これは……」
 足元に横たわるそれを、俺は屈み込んでよく姿を確かめる。この寒さの中、上着も羽織らず微動だにしない体からは、黒いものがじわりと染み出して新雪を少しずつ染め上げている。寒くて鼻は利かないが、嫌でもその臭気を連想させる光景だ。
「念のため、あなたも確認して下さい。私はそれほど面識がある訳ではありませんから」
「はい……」
 ドナは肩を震わせながら屈み込み、その顔を横からまじまじと見詰める。そして、しばらく沈黙した後、小さく短い溜め息を一つ漏らした。
「ええ……間違いありません」
「そうですか……」
 一体どうしてこんな事になってしまったのか。俺はあまりに突然の事で頭が混乱してしまっていた。とにかく状況を整理しなければ。そう思っていると、更に別の人影が寄宿舎から現れ、こちらへ駆け寄って来た。
「サイファーさん!? 今のは一体何ですか!?」
 クレメントは俺と同じように、寝間着になめし革の上着とブーツという出で立ちで、息を切らせながら駆けてきた。
「ええ。まずは、こちらを」
 視線を足元のそれに促す。するとクレメントはぎょっと両目を見開き、口を小さくぽかんと開けた。
「まさか、ジョエル……?」
「残念ながら」