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 ジョエルの自殺から一夜明け、俺は朝一番にリチャードの執務室へ向かった。昨夜は、現場検証や武官達の聴取を行っていたため、一睡もしていない。階段を登る足にうっすら重さを感じるほど疲れていたが、気は張りつめているせいか、頭の中は普段以上に冴え渡っている。変に興奮した状態だ。
 手には、仕上げたばかりのレポートを携えている。これをリチャードに検閲して貰った上で、すぐにでもこのストルナ市を離れるつもりだ。とにかく、早く紺碧の都へ帰り、この異常事態を大使へ伝えなくてはならない。ジョエルに全ての罪を被せて事態が収束するならそれで構わない、と大使は言うかも知れないが、俺の感じた違和感は全て伝えるつもりだ。わざわざ俺をストルナ市まで寄越したのは、きっとこういう事態に備えての事で、そうでなければもっと杓子定規に動く人間を使うはずだ。
 新館への渡り廊下を通り、階をひとつ上がって廊下を一番奥まで進む。途中、警護役である数名の武官に改めさせられたが、俺がリチャードの執務室へ行く事は予め伝えられているため、さほど時間も掛からず通される。大使館に居た頃は、普段は警護役の事はほとんど気に留めてはいなかったが、大使や公使とは本来それだけの重要な人物である事を、今更思い出したように認識する。
「失礼します」
 リチャードの執務室へ入ると、既にクレメントにドナ、ジャイルズといった決闘同好会のメンバーが揃っていた。彼らが一堂に会するのは、あの晩の夕食会以来である。見た目は、それこそ一流の外交官として教養ある理知的な振る舞いをするのだが、その裏では血みどろの活動をしているのだ。これだけギャップのある二重生活を成立させているのだから、人間とは恐ろしいものである。
「おはようございます、サイファーさん。昨夜は大変でしたね」
「いえ、リチャード殿の御心痛、御察し致します。それで早速なのですが、件の通り調査レポートをお持ちしましたので、内容の確認をお願いします」
「ああ、その件についてですが……」
 すると、リチャードはやや表情を曇らせながら、視線を俺から外した。
「申し訳ありませんが、あなたを紺碧の都へお帰しする訳にはいかなくなりました」
「えっ、何故でしょうか?」
「ジョエルの件です。昨夜の事件は、いずれアクアリア軍も知る事となるでしょう。それによる向こうの出方はどうなるのか、全く想像が付かないのです。すると、唯一彼らと交渉が出来るサイファーさんの存在は、必要不可欠になるのです。まことに勝手な申し出だというのは承知の上ですが、了承願いたい」
「しかし、もはや私個人には収まり切れない事態だと思いますが。正式な使節を立て、本来あるべき国家間の外交交渉を行うべきではないでしょうか。彼があのような事になった以上、アクアリア軍の要求は承諾出来なくなりましたし、私に出来るのはせいぜい宥めて時間を稼ぐ程度です」
「では、ジョエルの自殺の経緯についてを、アクアリア軍の代表者へ説明して貰いましょう。物理的に不可能な状態になった今、彼らにしてもこれ以上の包囲は無意味でしょう。必ず落としどころを探りに来るはずです。これは、彼らから一定の信頼を得られたサイファーさんでなければならない事です。今から新たに使節を立てたとしても、同様の会談の場を設けて貰う保証がありません」
「しかし……」
 そういった交渉自体、本来なら俺がやるべき事ではない。何故、そうも頑なに俺に対して押し付けてくるのか。
 やはり、ジョエルの自殺には後ろ暗い事があるのだろう。そこに触れられる懸念があるから、外部の人間である俺を使う、そういった所か。しかし俺も、この状況でゴットハルト氏に会いたいとはとても思えない。よくも口を封じたな、とかえって憤られる危険すらあるのだから。
「御心配なく。ゴットハルト氏は、非戦闘員を私刑に処する事はなさいませんよ。あの御仁は、今のアクアリアにおいても稀有な、昔気質の軍属と評判でしたから。それに、自ずから総領事館とのパイプを御破算にする筈はありません」
 けれど現状で既に、現役の部隊を私事で動かしストルナ市を占拠するという、明らかに異常な手段を取っている。本当に冷静なままでいられているのか、その保証はないのだ。
「申し訳ありませんが、宜しいですね?」
「分かりました……とにかく、善処しましょう」
 何にせよ、リチャードの許可も無しには帰還する事は出来ない。俺はリチャードに従い、彼の経歴を傷付けぬよう、ジョエルの自殺は本人の謝罪だったとゴットハルト氏に説明しなければならない。いや、説明だけでなく納得をさせなければ。
 そしてもう一つ、此処へ俺が留められた理由。それは、表沙汰に出来ない秘密を共有しているのに今更一人抜ける事は許さない、そんな遠回しな意思表示ではないだろうか。
 この状況は明らかにおかしい、異常だ。彼らは、目的のためなら平然と人を殺してしまう。リチャードを守るためなら、かつての同志すらも利用してしまうほど、理知的で冷酷なのだ。俺を監視するためではなく、口封じのために留めたのだとしたら。このまま何もせず彼らに従っていては、俺自身の命すら危うくなりかねない。
 何とかしてこの異常な状況を、紺碧の都へ伝えなければ。すると、朝から興奮状態で冴えていた頭と、その必死さがうまく合わさったおかげだろうか、俺はある名案を思い付いた。
「なら、手紙を書かせて貰えますか」
「手紙? それは構いませんが、内容は検閲させて貰いますよ。なにせ、ここストルナ市の郵便はアクアリア軍に押さえられています。封書であろうと彼らは検閲しますので、あらかじめこちらでも問題の無い内容か確認せねばなりませんから」
「大した内容ではありません。大使へ、こういった状況のため滞在が伸びる旨と、もう一通は私の妻宛てです」