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 公使の執務室は来賓客の応接に用いるため、高価な調度品で飾り立て豪奢な雰囲気を醸し出している。しかしソファーなどの直接触れる家具は、見た目だけでなく使い心地も抜群で、客に対する持て成しに気を使っている事が分かる。寒冷なアクアリアでも今は特に寒い時節だが、室内は程良く温められていて、分厚い上着も必要ない。本来なら、此処に通された訪問者は、ゆったりとリラックスした心境で過ごせる事だろう。しかし俺は、周囲に最大限気を配りながら非常に緊張した心境へ追い込まれていた。
「では、これにどうぞ」
 ドナが用意したのは、ペンとインク壷、そしてセディアランドの国章が印刷された便箋が二通。俺がこの場で手紙を書くためのものだ。
「この状況でしたためろと?」
「申し訳ありませんが、状況が状況ですので。どうか御協力願いたい」
 本質を濁した言葉だったが、とにかく俺を逃がさないし信用もしていない、と言わんばかりの処遇である。手紙にしても、今ここで書かせるのは、俺が何か細工をするのだと疑っているのだろう。これまでも心の内では信用されてはいなかっただろうが、ここにきて急に形振り構わず露骨な行動を取るようになってきたと思う。もう隠す必要もないというよりは、ジョエルが死んだ事に焦り出したように感じる。一つ間違えば、リチャードの責任問題にされかねない状況なのだから、描いた青図を完成させるため躍起になっているのだろう。
 彼ら決闘同好会にどのような思惑があるにせよ、ジョエルをリチャードの立場を守るために殺したのは事実であるだろうし、それを疑っている俺の身の安全も危うい状況に変わりはない。今最優先すべきは、この異常事態を紺碧の都へ伝える事だ。これを知れば、直ちに大使が自らの強権を持って、何か対策を講じてくれる筈である。
「公使はあまり御時間がありません。さあ、お早めに」
 クレメントに急かされ、仕方なくペンを取った。衆目の下で手紙をしたためるなど、初めての経験である。どうにも周囲の視線が気になって仕方なかったが、とにかく便箋に集中してしたため始める。
 一通目。大使宛てには、大まかな状況と調査が思うように進展していない旨を連ねた。それにより滞在期間の延長と、公使もそれを望んでいる事を添える。
「失礼します」
 書き上げた手紙をドナへ渡し、それがリチャードへ渡る。リチャードはしばし内容を黙読すると、問題がない事を確認出来たのか無言で検閲印を押した。
 そして二通目。ルイ宛ての手紙をしたため始める。これは大使宛てとは違い、完全な私信である。それすらも検閲されるというのは、少なくともセディアランドでは有り得ない事だ。
 ルイに何としたためるか。実の所、これといって早急に伝えたい言葉はない。この手紙は、身動きの取れない現状を打開する、そのきっかけを作るためのものなのだ。
 一旦文面には悩んだものの、程なく便箋一枚全面にそれを書き終える。一通目に比べ、周りを囲まれて手紙を書くにも慣れ始めてきた。
「宜しいですか?」
「ええ、どうぞ」
 今度はクレメントが手紙を取った。おそらく、決闘同好会の中で最も俺を信用していない者である。この監視下での執筆にも関わらず、大使宛てより家族宛ての方に強く疑いを持っているのだろう。
「奥様に手紙、恋文でしょうか? 噂通り、情熱的な家庭のようですね」
「単に妻が寂しがり屋なだけです。帰りが遅くなる時は、必ず手紙を送る約束でしたから」
「なるほど、そういう事でしたか。それで―――ん?」
 その時、書き終えたばかりの手紙に視線を落としたクレメントは、ぎょっと目を見開いて再度文面を確認した。そして、見る間に眉間に深い皺を刻み込み始める。
「サイファーさん、これは何の悪ふざけですか?」
「ふざけてなどいませんが」
 何故クレメントがそんな事を指摘するのか、理由は分かっている。けれど、俺は敢えて気付かない振りをしつつ、やや語気を強め当然の如く振舞った。
「しかしですね、あなたがこのような文章を真面目に書くとは思えません」
「公務ならともかく、プライベートの事ですから。我々夫婦の嗜好について、他人から批評を受ける筋合いはありません」
 更に語気を強め、むしろ不快感すら表すような勢いで、真っ向から断言する。それでも俺が本気かどうか判断し難いのか、クレメントは自分がどう出たら良いのか分からずたじろいでしまった。
「クレメント、見せて貰えますか」
 そこへ助け船を出したのはリチャードだった。すぐさまクレメントは手紙を持って行き、手紙はリチャードへ渡る。
「『私の可愛い妖精へ。早く帰って、お前の花の蕾のような唇を吸いたい。そして、柔らかく滑らかな雪のような肌を一晩中愛撫し』―――」
 そこまで読み上げた所で、流石にリチャードも言葉を濁してしまった。クレメントだけでなく、ドナやジャイルズも、聞いてはならないものを聞いてしまったとばかりに、気まずそうな表情を浮かべている。
「これは……意外でしたね。サイファーさんにこのような一面があるとは」
「だから、本当は検閲など応じたくはなかったのです」
「御心配なく。ここでの出来事は、一切外部には漏らしませんよ。けれど、羨ましい限りです。こうも夢中になれるような女性を、妻に迎える事が出来たのですから」
 以前、ドナから聞かされた、高級外交官の間にある閨閥という風習の事を思い出す。リチャードは、その出自が故に自分の配偶者は自分で選ぶ事は出来ない。だからこその、純粋に羨んでいるように感じた。
「リチャード公使。有り体に申し上げれば、私は公使の経歴に傷を付けぬよう配慮するように、大使から言い使っております。ですから、もう少し信用をして戴きたいものです」
「そうでしたね。今回はいささか度が過ぎていたようです。申し訳ありません」
 すまなさそうな表情で陳謝するリチャード。その姿にクレメントは、一旦は止めさせようと何か言い掛けるものの、あまりに真剣な雰囲気に気圧されたのか、やがておずおずと自分も続いた。
 随分と素直に非を認めた格好だが、それもどこまで信用して良いのか分からない。腹芸は外交官の必須スキルである。表と裏で真逆の事を考えるなど、極々当たり前の事だ。この場は謝罪を受け入れるとして、油断はまだ出来ない。結局はストルナ市から出られない事に変わりはないのだから。
「紺碧の都へ戻らない以上、私もここで微力ながら解決に向けてお手伝い致します。先程お話したゴットハルト氏との会談の件、直ちに打診をしてみます。おそらく午後には出来るでしょう。そこで、ジョエルの件については説明いたしますので」
「分かりました。引き続き、交渉についてはあなたにお任せ致します」