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 これと言った捜査の進展も得られないまま、その日は日が暮れてしまった。
 夕暮れ時の食堂は大勢の職員で賑わっており、席一つ確保するにも一苦労の盛況ぶりだった。日勤を終えた者達はのんびりと食事や酒を楽しみながら談笑に耽り、これから夜勤に入る者達は黙々と食事を取った後に足早に去って行く。丁度日勤と夜勤が入れ替わるこの時間帯ならではの、特徴的な光景である。
 今日のメインディッシュは、アクアリアの近海で取れる赤身魚のクリームシチューだった。ぽつぽつと脂の浮いた白いスープに、ほんのりピンク色を残した魚の身が皮付きでごろごろと入っている。他にも野菜が幾つか入っているが、やはり一番目を引くのはこの大振りな魚の切り身だろう。スプーンですくい口へ流し込むと、ホワイトソースの甘味と魚の旨味が一度に広がり、一日の疲れが嘘のように消えていく錯覚さえした。ただ、その後に続く塩味が何時までも強く尾を引き、都度口直しに白湯を飲んで緩和しなければならなかった。アクアリアはセディアランドと違って一年中寒さの厳しい土地柄のためか、味付けが全般的に非常に濃い。おそらく、開梱をしていた肉体労働者の食事の味付けがそのまま今に伝わっているのだろう。もしくは、単純に甘い調味料が手に入り難い歴史があったかだ。ともかく、セディアランド人の俺にはなかなか慣れない味付けである。普段食べているルイの料理はラングリス風の甘めの味付けだが、最近はそれに慣れて来ただけに、尚更濃く感じる。此処にはセディアランド出身の職員も多く居るのだろうが、彼らは皆この味付けに慣れてしまっているのだろうか。
 食事を済ませコーヒーを飲んでいると、またしても厨房の奥からブルーノがにこにこしながらやって来て俺の向かい側へ座った。何やら自分が、彼の好奇心を満たす噂の情報取得元になっているような気がしてならない。
「サイファーさん、捜査の方は順調ですか?」
「いいえ、全く。そもそも私は、事件捜査の専門家ではありませんから」
「ですが、大使閣下に見込まれた方じゃありませんか。大丈夫、何とかなりますよ」
「閣下に買い被られただけですよ、私の場合は」
 実際問題、捜査のいろはを知らないで取り組んでいる事は、状況を膠着させている一番の原因である。俺は元々監部の人間であり、脱税や汚職の捜査ならば得意なのだが、殺人事件の捜査など全くの専門外である。捜査には違いないのだから何とかなると思ってはみたものの、いざ取り組んでみればまるで勝手が違う事を思い知らされる。専門家を相方に付けて貰うべきなのかも知れないが、関わっている事が事であるだけに、その実現は非常に厳しいだろう。
「しかし、あのジョエルさんでしたっけ。なんでも、殺されたそうじゃないですか。自殺とはされてますけど、みんな噂していますよ」
「クレメントさんが緘口令を敷いたと思っていたんですが。もうそんなに噂になっているのですか」
「人の口には戸は立てられぬ、とは言いますがね。今回は仕方ないでしょう。同じ職員が、自殺なのか他殺なのか分からない、不自然な死に方をしたんですから。それについて、公使もだんまりを決め込んじゃって。だから余計に、みんな疑っちゃうんですよ。実は公使に殺されたんじゃないかって言う人も、そう少なくはないんですよ?」
 事件の詳細については、下手に広まらぬようクレメントが規制を掛けていたはずだったのだが。発端からしてあれだけ派手な事件だと、そもそも封じ込めるのは無理なのかも知れない。
「しかし、疑いが公使に及ぶのは考え物ですね。悪いイメージが定着する前に払拭していかないと」
「あの、本当に公使では無いのでしょうか?」
 疑い半分、真実味半分、そんな表情で訊ねるブルーノ。俺が何と言おうとも、どこか公使を信じきれていない部分があるのだろう。
「公使は無実ですよ。ジョエルの死については、誰よりも悲しんでおられましたから」
「そうですか……」
 それでも釈然としない表情で、ブルーノは小首を傾げる。確かに、公使に近しい人間でも無ければそう捉えるのも無理は無いだろう。そもそも公使と一般職に接点など存在しないのだ。身近に感じる事が無ければ、不信感を強く覚えても仕方がない。
 総領事館内での公使の評判は、あの事件以降著しく貶められたと言っていいだろう。ジョエルの死が反公使派の仕業だとするなら、彼らの企みは完全に成功である。
 しかし、彼らは一体何者なのだろうか。そればかりが謎である。何のために公使の評判を落とすような真似をするのか。潜在的な政敵か、逆恨みか、諸外国の工作なのか。何にせよ、公使という立場上いずれも考えられるのは非常に頭が痛い。強権を持っているが故に、あまりに敵が多過ぎるのだ。
「あの、一つお訊ねしますが。もしも公使がこのまま失脚してしまった場合、どのような展開になるのか、一職員としての観点から予測は付きますか?」
「予測ですか? そうですねえ……。今この総領事館には、公使参事官に次ぐ方は居らっしゃらないんですよ。領事も総領事も不在でして。ですから、急に公使が居なくなりますと大分混乱するのではないでしょうかね。業務も滞るでしょうし」
「となると、総領事館には公使が失脚して得する職員は居ないと?」
「まあ、そうかも知れませんね。私は政治についてはとんと疎いので、もしかすると誰か居るのかも知れませんけど。取り敢えず、次の公使が本国から派遣されるまでは、大変な状況になるのは間違いないと思いますよ」
 目立った政敵が総領事館周辺に居ないとしたら、仮に何かしらの利益誘導が目的とも考えられる。公使が持つ利権や証券、財界の繋がりなど、一時的に押さえるだけでも利用方法はごまんとある。この線なら得意分野ではあるが、捜査には長期間を要する。アクアリア軍が駐軍している現況を引き延ばす訳にはいかない。
 ゴットハルト氏に約束はしたが、本当に反公使派の存在を突き止める事は出来るのだろうか。安請け合いをしてしまったのではないか。そんな不安が徐々に色濃くなっていく。
 それを紛らわすかのように、濃いめに淹れたコーヒーをもう一杯飲み始めたその時だった。背後の方から、和やかな食堂には似つかわしくない、慌ただしい足音が近付いて来るのに気が付いた。そしてその気配はぴったりと俺の背後へやって来る。
「サイファーさん、お休み中失礼します」
 何事かと思い振り返ると、そこへ立っていたのはドナだった。普段は冷然としている彼女だが、珍しく血相を変え息を切らせている。よほど慌ててやって来たのだろう。
「どうしたのですか?」
「緊急事態です。これから私と公使の元へ出頭して下さい」
「分かりました。では、これで」
 怪訝な表情を浮かべるブルーノに黙って一礼し、ドナと連れ立って食堂を後にする。
 しかし、この時間に緊急事態とは一体何だろうか。直感的に思い当たるものはなかったが、ドナの様子からあまり芳しいものではない事ぐらいは想像出来る。俺は丁度中庭に出た所で、早足で歩きながらドナに仔細を訊ねてみた。
「一体何事でしょうか? 緊急事態とは穏やかではありませんが」
「申し訳ありません。実はつい先程、アクアリア軍のゴットハルト氏がセディアランド側へ政治亡命して来たのです」
「は? 亡命、ですか? まさか受け入れたのですか?」
「目的について、詳細は伺っておりません。ただ、セディアランドとアクアリアは半世紀程昔に、双方無条件に亡命者を受け入れるという臨時条約を交わしています。過去の大戦における休戦協定の条件の一つだったそうですが、未だ両国間で撤廃の同意を取っていない以上、現在もそれは有効です。よって、当館としてもこれは受け入れざるを得ないのです」