戻る

 駆け付けた公使の執務室前は、何名もの職員や武官がひしめいていて、何時になく物々しい空気に包まれていた。特に職員達は、しきりに入れ替わりながら連絡を取り合ったりと、臨時的な業務に追われているといった様相だった。この状況だけでも、何か切迫した事態に陥っている事が見て取れる。
 人並みを掻き分けながら、公使の執務室へと入る。執務室は外と打って変わり、いつもの同好会メンバーのみという閑散とした状態だった。この緊急事態に、公使が腹心だけを集めたとも、あの事件の関係者だけを集めたとも取れる。
 いずれも深刻な面持ちで、特にリチャードは普段の涼しげな気品ある仕草など無く、酷く動揺した気を紛らわせるためか、左手の指を意味もなくしきりに動かしている。
「突然お呼び立てして、申し訳ありませんでした」
「いえ、構いませんよ。それより、ゴットハルト氏が亡命して来たというのは事実ですか?」
「はい。現在は、此処の地階にある特別室へ通してあります。付き添いの者は全て帰しました」
「特別室とは何ですか?」
「貴賓を拘留する場所、とお考え下さい。ともかく、彼を単なる一亡命者と扱う訳にはいきませんから」
 ゴットハルトは、ストルナ市を包囲しているアクアリア軍の指揮官である。いわば、敵の大将という存在だ。彼は息子セルギウス大尉の死に関する事件について、セディアランドと対立している。軍を動かしたのもそれが理由だったはずだが、今になって何故亡命などしてきたのだろうか。その真意を掴むまでは、おいそれとただの亡命者として扱う訳にはいかないだろう。
「それで、亡命の目的は何なのでしょうか?」
「実は、まだそれが分からないのです」
「分からない?」
「サイファーさんをお呼び立てしたのは、その事も関わっています。ゴットハルト氏は、あなた以外とは一切応じないと主張しているのです」
 ゴットハルト氏は、俺を信用しているのではなく、総領事館の人間を信用していないのだろう。公使と反公使派の話をしたばかりという事もあるのだから、仕方のない事ではある。だが、実際にやってしまうのには相当肝が座っていなければ出来ないだろう。流石に典型的な軍人気質の持ち主だけはある。
「休戦協定を結びに来たのか、若しくはそれ以外に何か理由が……。そう言えば、ゴットハルト氏はアクアリア政府との確執があったそうですが、もしかするとそれに関わる政治亡命かも知れません」
 ゴットハルト氏が退役した直接の原因は、当時のアクアリア政府との確執と、何らかの取引によるものだったという。決して円満な退役ではなかったのは確かだから、そこに亡命の理由があると考えられなくもない。ただ、俺は今一つその説には賛同しかねた。実際に本人と接して対話した限り、彼は少なくとも政府との確執を引き摺っているようには思えなかった。となると、やはり当初の目的通り、セルギウス大尉と決闘同好会の件に掛かる何が目的なのだろう。
「ところで、この件について大使館へ連絡は?」
「既に密使を送っています。ただ、天候が悪い事と街道をアクアリア軍に押さえられている事で、到着には数日を要するでしょう。その間、指揮官の不在のアクアリア軍が大人しくしている保証もありません。場合によっては、強行突入も覚悟しなければ」
 もちろん、それは完全に総領事館の自治権を無視した国際法違反の行為である。だが、一度コントロールを失ってしまった群衆には、そんなルールなど通用しない。
 ただの暴徒ではなくアクアリアの正規兵が乗り込んだとなれば、国際世論にまで発展する。セディアランドも、そのまま開戦せざるを得ない状況になるかも知れない。何より問題なのは、それらの騒動の原因を作ったのがレイモンド家の人間であると、たとえ事実がどうあったとしても、そう後世まで伝えられてしまう事だ。これはレイモンド家にとって最大の汚名でもある。絶対に回避せねばならない事だ。
「ともかく、サイファーさん、まずはゴットハルト氏と面会して頂けませんか。何も分からないままでは、対策の練りようもありませんから」
「分かりました。元々、私が使節をしていた事ですから。何とか取り合ってみます」
「では、参りましょうか。そこまでは私が御案内致します」
 そう言って進み出たのは、ジャイルズだった。彼も不安の色濃く滲み出た表情をしている。ゴットハルトが更に事を大きくしてしまった事で、一体どこに着地点を求めればいいのか分からなくなってきている、そんな表情だ。
「サイファーさん、どうか穏便に済ませるようお願いします。もし取引を求められたら、それは一旦持ち帰って下さい。内容によっては応じられるものもありますから」
 更に続いたクレメントは、青白い顔で震えた声を絞り出し、そう何度も俺に言い聞かせてくる。下手をすれば決闘同好会の事が表沙汰にもなりかねない、公使の瀬戸際の状況である。彼も彼なりに必死なのだろう。
 皆がそれほどまでリチャードに厚い信頼を寄せているのは、偏に人の縁では片付かない有形無形の恩があるからなのだろう。公使としても、私人としても、彼は一角の人物なのかも知れない。ならば反公使派の何者かは、一体何が理由でその立場に回ったのだろう。リチャードには、人をそうさせるだけの二面性もあるのだろうか。