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 リチャードは、厳しい表情のままジョエルの手帳を熟読し続ける。その傍らで、俺は改めて取った武官達の調書を何度も読み返した。リチャードの執務室は、皆が手帳の信憑性を確かめるべく黙々と確認の作業に打ち込んでいる。これがゴットハルト氏への効果的な策になるのは間違いないが、そもそも信憑性の薄いものであれば元も子もない。その不安感を払拭するため、みんなが必死だ。
 武官達の調書からは、また幾つかの発見があった。手帳は、毎年ストルナ市の金融業から配られるノベルティであること。ジョエルは、自分は物覚えが悪いからと手帳を活用していたという証言。件の金融業者から借金をする武官も居るが、ジョエルはそれには当てはまらず、むしろ地道に蓄財していたということ。家族や身内は無く、長期休暇も取る事は無かったということ。それらの証言を統合すると、ジョエルは堅実で仕事熱心な正確だったことが窺える。けれど、その裏で彼は決闘同好会に入り、何らかの野心に燃えていた訳でもある。ただそれは、ドナに近付くための方便とも考えられるが、かと言ってそう簡単に嗅ぎ付けられるものだろうか。
「如何でしょうか?」
 そう訊ねるドナは、また別の調書を小脇に抱えていた。こちらもジョエルの手帳の裏付けに手一杯の様子である。
「ジョエルには、これと言って反社会性は感じられませんでした」
「しかし、手帳に記載されていた事は事実です」
 空かさず会話に割って入って来るクレメント。そこには、事件の矮小化を狙っている意図がありありと浮かんでいる。もっとも、それ自体は決して悪手ではないのだが。
「ジョエルの意図は分かりました。ですが、セルギウス大尉側の意図はどうだったのでしょうか? それ如何によっては、二人の決闘の意味合いも大分変わって来ます」
 手帳をそっと閉じながら問い掛けるリチャード。
こちらにとって有利となりそうな物証を前にもまったく油断をしておらず、慎重な姿勢である。
「ジョエルと似たり寄ったりに決まっています! 彼らは会則に従わず、私怨で決闘を行ったのですから。そもそも、入会自体を認めるべきではなかった人物なのです」
「かと言って、人間性まで不当に貶められる謂われはありません」
「我々の決闘同好会は、精神修養のために発足した会のはず。その理念に自ら背を向けた者の人間性を、不当に持ち上げる必要もありません」
 断固として二人を非難するクレメントに、リチャードは及び腰になり口を閉ざしてしまった。おそらく、持論の論拠が弱い事を自覚しているのだろう。
「それで、これから如何しましょうか。確かに、セルギウス大尉の立ち位置が不明なのは気になりますが、ゴットハルト氏に追及出来ない訳でもないと思います」
 いささか不本意ではあるものの、二人の決闘を殊更矮小化して伝えれば、流れは確実に此方へ向いてくる。それに、俺はゴットハルト氏から一定の信頼を受けている。俺がこの事を伝えれば、この醜聞を認めざるを得ないだろう。
「セルギウス大尉の部屋には、同様の物はなかったのですか? 日記だとか、手記だとか」
 そう訊ねるジャイルズ。こちらは普段通り、仕草の中の表情が薄い。
「いえ、探してはみたのですが、見つかりませんでした。元々、当館には持ち込んでいなかったのかも知れません」
 外交機密に当たる事柄も書かれている物は初めから持ち込まない、というのは初歩的だが最も効果的な防衛手段である。尉官まで徹底させているのかは分からないが、そういう取り組みがなされていてもおかしくはないだろう。
「必要無いでしょう。どうせ繰り言になるだけです。さあ、そろそろ始めましょうか。サイファーさん、すぐにでも宜しいですね?」
「私は構いませんよ」
 俺は調書を閉じて席から立ち、クレメントに応じた。まだ腑に落ちない所は無くはないが、今こうして交渉の材料となる物が出て来ている以上、行動はしなければいけない。ゴットハルト氏が簡単に退くかどうかは分からないが、少なくともこちらが公言出来る正当性を示せば、相手の立場を悪くする事は出来るのだ。そうまでしても、リチャードの体面は守らねばならない。
 リチャードは顔を上げて何かを言い掛けるが、途中で思い留まったのか再び口を噤んだ。そんなリチャードに、ドナは健気に気遣う素振りを見せる。この姿だけを見るなら、世論はこちらに付くはず。だがそれは、ゴットハルト氏に対して過分なレッテルを貼る事にもなる。もはや双方に良い顔をし、後味良く終わらせる事など不可能な状況だ。
 その時、執務室のドアが外からノックされる。ジャイルズは室内の様子を確認し、そっと僅かだけドアを開いた。そこには一人の武官が背筋を伸ばした姿勢で立っていた。
「先程、客人から御伝言を遣いました」
 客人とは隠語で、この場合はゴットハルト氏の事を指す。
「何だ?」
「大使私設秘書官殿と会談がしたい、との事です」
 ジャイルズは無言でこちらを向き、武官の報告を認識したか、確認の視線を向けてくる。
 このタイミングで、まさか先方から持ち掛けて来るとは。
 俺は思わずリチャードに、そしてクレメントにと顔を見合わせ、そして了承と承諾の意味で頷きます合う。考えている事は同じようである。
 ジョエルの手帳の件だけを持って行くのは角が立つので、いささか気の引ける部分もあった。しかし、先方から誘いをかけてくれるのであれば随分と気が楽になる。肝心の、ゴットハルト氏の用件も気にはなるが、まずはこの機会を存分に利用するべきだろう。この宣告により、ゴットハルト氏の大義名分を奪うのだ。