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 それは、驚くほどの力強さで成された。己の腹に突き立てられた剣の切っ先は何の躊躇いもなくそのまま飲み込まれ、ぶちぶちと筋を抉るような音を立てながら中を突き進んで行く。誰かがその凶行を理解し息を飲んだ時には、その切っ先は背中側へ到達し、服のを僅かに突き破った後だった。
「何を!」
 ようやく我に返った俺は、すぐにゴットハルト氏の元へ駆け付ける。ゴットハルト氏は両手で柄を握り締めたまま膝を付いた姿勢で、既に事切れた後だった。その姿を前に俺は、一体どうしたら良いのか分からなくなり、混乱してしまった。人の死を目の当たりにした事は初めてではない。監部時代には、追い詰められるあまり自ら身を投げた者をも見たことがある。けれど、これだけ苦痛を伴う無惨な自死を見たのは初めての事だ。
「あ……い、医者を……」
 どうにか声を振り絞ったクレメントは、覚束ない足取りで部屋の外へと飛び出していく。クレイグもまた、俺と同じように動揺を隠し切れず蒼白になって狼狽えている。ただリチャードだけは、顔色こそ失ってはいたものの、気丈にも平素の表情を保ち続けていた。
 まさか、こんなに簡単に自害してしまうとは。
 アクアリア人が、かつては命よりも名を重視する気風で、ゴットハルト氏はその昔気質の人物だからそういう可能性もあるとは思っていた。しかし、寄りによってこんなにあっさりと、それも確実に死ねるかどうかは分からないが過分に苦しむやり方で遂げてしまうとは想像も付かなかった。死ぬならば、何故もっと楽な方法を取らなかったのか。そう考えてしまうのが、セディアランド人との価値観の違いなのだろう。
「これは……ともかく、閣下に連絡しなければ」
「いえ、その前にストルナ市の占拠をどうにかしましょう。ここのアクアリア軍を撤退させなければ郵便も検閲が入りますし、統率が取れなくなるとどんな行動に出るかも分かりませんから」
「そ、それもそうですね……。では、アクアリア軍の方は私が交渉します。現在の政府情勢は私の方が詳しいですから」
 冷や汗を拭いつつ、クレイグはうっかり取り落とした書類をかき集めて慌ただしく部屋の外へ出ていく。俺はその後ろ姿を見送りつつ、自分は何をどうすればいいのか分からず、未だ呆然とゴットハルト氏の体を見下ろしていた。
「私は……そんな……」
 やがて、言葉にならない呻き声のようなものを漏らしながら、ドナは手にした大弓を抱きかかえ膝から崩れ落ちる。驚きとも悲しみともつかぬ感情に顔を歪め、かっと見開いた目は焦点は曖昧にこの光景を眺めている。まさか、こんな事になるとは思いも寄らなかった。そう言いたげな姿に見える。だが、この期に及んで何を言うのか、どこか言い訳めいた様子のドナに少なからず怒りを覚えながら見やった。如何様な理由にせよ、ドナは自分の都合で二人の人間を死に追いやっている。それが果たしてどんな事態を呼ぶのか、明確に自覚した上でやっていた筈である。今更、弁解めいた事を口にした所で、到底誰も納得などしないだろう。
 今回の一連について、大使への報告のためにもそうだが、経緯と状況を明確に整理しておかなくてはいけない。俺はうなだれるドナに、努めて事務的に話し掛けた。
「セルギウス大尉を殺害したのは、あなたで間違いありませんね」
「はい……そうです」
 まともな返答など期待していなかったが、ドナは思ったよりもはっきりとした口調でそう答えた。もはや誤魔化しも隠し立てもする気力が失せてしまった、そんな表情である。
「二人が決闘をするように仕向けました。私は立会人として同席し、二人の決闘の最中に、この弓でセルギウス大尉を射ました」
「その後、どうしましたか?」
「ジョエルがセルギウス大尉に刺さった矢を抜くと、その傷を誤魔化すために更に剣で抉りました。そして私に、此処には自分と大尉しかいなかった事にしろと」
「それは、予め打ち合わせていた事ですか?」
「いえ。共犯者として黙っていてくれる筈程度にしか思っていませんでした。実際はそれ以上に動いてくれましたが。もっとも、そのためにジョエルをその気にさせておいたのですから」
 セルギウス大尉にはジョエルに言い寄られて困っていると相談し、ジョエルは自分に惚れ込ませて都合良いように使う。そうやってドナは二人を思うままに都合良く操り、こんな大事件を引き起こした。しかもそれは、今こうしてゴットハルト氏までもが自害を果たす事にも繋がった。少なくとも、死ぬ必要のなかった人間が三人も死んだのだ。理由はどうあれ、到底許される行いではない。
「公使、宜しいですね?」
 そう、出来るだけ直接的な表現を控えた言葉で、最後の確認をリチャードに取る。リチャードは目を瞑りながらしばし沈黙を続けたが、やがて何か決心したのか重い溜息をつくと、視線を一瞬だけ合わせこくりと小さく頷いた。
 ドナが本性を現しリチャードの失脚を画策していた事を自白したというにも関わらず、リチャードからは動揺した様子が感じられなかった。むしろ、この場で一番落ち着いているのがリチャードのように思う。ドナが大弓を持ち出した時も、彼は取り乱した様子は見られなかった。もしかするとリチャードは、ドナが暗躍していた事を全て知っていながら、敢えて知らない振りをして庇っていたのかもしれない。