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 息の詰まるような狭苦しいこの部屋で唯一の取り得と言えば、一つだけついた腰窓からの風景だろう。中庭の片隅が見えるだけで人の行き交いが目に入る事はなく、代わりに日中は良く日差しが入って来る。しかし、その唯一の利点も今は全く見る影もない。季節は雨季に入り、週の半分以上が一日中雨が降り続けているからだ。そして、日差しが無いせいで湿気はこもり、部屋中どこか黴臭さまで漂っている。
 そんな、ただ居るだけでも落ち込みそうなこの部屋で、日長古びたデスクに足を放り投げては天井を眺めていた。天井の染みを数えるほど酔狂ではないが、かと言って他にやることもない。ここ編纂室の仕事は、毎朝届けられる新聞から憲兵が絡んだ不祥事を探し出し、それを通達する事である。だが、そもそも新聞紙は予め検閲を受けなければ発行する事は出来ず、憲兵の不祥事など掲載される訳が無い。それは予め織り込み済みの事であって、つまりここは厄介者を体良く本業から遠ざけるための部署なのだ。
 ざっと暇潰しに目を通して投げた新聞は、デスクの上に山のように積み上がり、何束かは床にこぼれ落ちている。いい加減片付けようとはいつも思うのだが、いざやろうとなると、束ねて紐で括るだけの事が酷く煩わしく思えて手が止まってしまう。以前なら、砂浜でピアスを拾うような気が遠くなる作業にも夢中で取り組んでいたのだけれど。気が滅入るとこうも活力が失われてしまうものなのか。
 自分は本来こんなでは無かったはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。
 この編纂室に居るのは自分一人のため、いつの間にか独り言が癖になってしまった。そしてその独り言は決まってぼやき事で、我ながら非常に女々しいと思う。しかし、何度注意したところで一向に収まる気配は無い。
 俺が此処へ飛ばされたのは、まだ一ヶ月ほど前になる。配属された時から気に食わず、焦臭いものを感じていた俺の元上司。奴の収賄や裏接待の一部始終を二年も掛けて裏を取り、遂には告発してやったのだが、それは日の目を見る事無く見事に握り潰されてしまった。その報復人事で、この有り様である。
 敗因は、明らかに相手の戦力分析の甘さだ。奴の後ろ盾などせいぜい総会屋程度だと踏んでいたが、実際は経済界の大物や宰相の会派など、一度楯突けば三度は死ねる、豪華な面々が揃っていた。にもかかわらず俺が未だに生かされているのは、奴が俺に徹底的に敗北感を味わわせるためだろう。それだけの大物達の存在に気が付かなかった間抜けさ加減を自覚させ、この汚い部屋へ押し込んで自分との格の違いを思い知らせ、その上で屈伏するか逃亡するかを選ばせる。そういうのが好きな、陰険な奴なのだ。
 元から屈伏するつもりは無かったが、最近は監部を辞めようかと思い始めている。監察官の現実に幻滅を覚えたせいもあるが、このたった一ヶ月の間で気力が粗方削がれてしまったのだ。元の職務へ復帰出来たとしても、以後は必ず奴の顔色を伺いながら仕事をしなくてはいけなくなる。俺はそういう事がしたくて、難関中の難関と言われている監部の試験に挑んだ訳ではないのだ。
 そんな鬱屈した思いをくすぶらせている内に、やがて正午を知らせる教会の鐘の音が聞こえてきた。町外れにありながら大きな鐘楼を持つその教会は、時折寄付のために訪れている。鐘楼の鐘は実に見事で、その音も良く澄んでいる。最近は足が遠退いてしまっているが、そろそろ神頼みでもした方が精神衛生に良いのではないだろうか、そんな自虐的な事を思う。
 昼食に出掛けようと、俺は足を床へ下ろし席から立った。何もしなくとも昼になれば腹は減るのだが、庁内の食堂には知っている顔もあるだけに、足を運ぼうとは思わない。いつものように外へ繰り出すべく、傘を手に取った。外に出ると時間は掛かるが、どうせ時間に追われる身ではない。
 部屋を出ようとノブへ手を伸ばす、その時だった。ふと俺は部屋の外から人の気配が近付いて来るのに気付いた。来客かと思ったが、そんな者は此処へ飛ばされて以来一度もない。それに頼り無げな足音からして、どうも同じ職員のようではない。庁舎を歩き慣れていない雰囲気だ。
 侵入者にしてはあまりに不用心だし、来客にしては案内を付けられていない粗雑な対応だ。そもそもこちらには編纂室と古い保管庫ぐらいしかないのだが。
 どうするべきか考えていると、足音がドアの前で止まった。どうやら本当に編纂室への来客のようである。
 控え目なノックと、ドア越しにくぐもった声がする。まさか居留守を使う訳にもいくまい。俺は傘を戻し、ドアを開けた。
「あ、あの、編纂室とはこちらで宜しいでしょうか?」
 そこに立っていたのは、まだ目元に幼さの残る一人の女性だった。年齢は十七、八というところだろうか。体の線の細さから、少食でやや神経質な気質が窺える。視線が一つの所に定まらず、何か心細い事でもあるらしい。
「そうだが、何だ?」
「あの、窓口で相談したのですが、管轄が違うとか何とかで。それで、その後憲兵さんに聴取を受けまして、それで何でも私は不法入国のようなので、こちらにと」
 こちらの顔色を窺うようにおどおどしながら話す彼女の言葉に、俺は思わず眉をひそめた。話している事は何となく分かりはするのだが、その筋道があまりに支離滅裂である。しかし、聞き流すにしては不穏な言葉も混ざっており、これはこちらから細かに確認を取らなければいけない。この昼休みに入った直後の時間だと言うのに、甚だ迷惑な来客である。
「聴取をしたのは入管か? それがこちらへ来たという事は、何か書類でも渡されなかったか? 管轄が違うと、こちらも迂闊に引き受け様がないのだが」
「あ、はい。渡されてます。それで、これを……」
 そう言って彼女が差し出したのは、一通の封筒だった。封筒には宛名代わりに、紹介状という文字の走り書きがあった。
「紹介状?」
 普通紹介状というものは、外部の人間を紹介して貰う時などに使うものだ。何故自分宛にそんなものが、そう疑問に思いながら封筒の裏を見る。するとそこには、事も有ろうに奴の名前が代筆であろう筆跡で書かれていた。筆跡も見覚えがある。奴が顎で使ってる腰巾着のもので間違いない。
「なるほどね……」
 咄嗟に込み上げてきた怒りを逃がすため、俺はわざと笑みを作って歯の間から苦笑いを漏らした。
 一応は同じ庁内に居るというのに、この慇懃無礼な作法。中身を確認するまでもなく、これを書いたのはあいつに間違いないだろう。
「それで、どんな用件だ? そちらの事情が分からないのだが?」
「その、私が何者なのか調べて頂きたいのです」