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 金貨の大袋を担ぎ上げた帰路を踏破し、どうにか庁舎の編纂室へ戻ったのは日もとっぷりと暮れた夜更けの事だった。この大荷物を持って帰る事をわざわざ強行したのは、流石にこれだけの大金をあんな場所へ放置するにはいかないのと、万が一にでも証拠品を失う訳にはいかないからだ。多少どころではないきな臭さはあるものの、レイの身元の特定のための重要な手掛かりになるかも知れないのだ。
 到着するなり、早速デスクの上を払ってスペースを作り、そこへ袋の中の金貨を全て広げた。澄んだ高音を立てながら散らばる金貨は、どれを取って見ても本物としか思えない出来である。いや、実際本物の金に違いないのだろうが、廃屋から見つかるという経緯が経緯だけに、どうしても現実味が沸かないのだ。金貨の刻印はこの国で流通しているものとは異なっており、これが益々出所の薄暗さを掻き立ててくる。しかも他国の金貨ならば、レイがこれを持って密入国したとしても辻褄が合う。裏社会の資金が何らかの事情で流出した、と仮定すると、幾らか現実味が出て来るだろう。けれど、そういった裏社会の出来事と当事者であるレイの接点が今ひとつ見えて来ない。これだけの資金を動かす闇商売に関わっているようにも、情婦や商売女のような擦れた雰囲気も無い。本当に何処にでもいるような女性である。そう見えるのは、レイが記憶を失っているからなのだろうか。記憶を取り戻せば、今とは言動ががらりと変わり印象も違って来る、そんな事が起こり得るのか。いや、取り引きの受け渡し役などに使われただけなら有り得そうな話ではあるか。だがそうなると、あの明らかに暗殺目的の短剣はどう説明すればいいのだろうか。鞘に残された血液の主も気になるし、刀身にも使った形跡があった。護身用にしてはいささか物騒な代物である。
 何にせよ、まずはこの金貨が流通している国を特定しておかなければならない。レイの身元調査はそこからもう少し先の段階だ。
「資料室に行って来る。君はどうする? 疲れたのなら、今日は仮眠室で休んで構わないぞ。あそこは利用者が多過ぎるから、部外者の一人や二人が入り込んだ所でバレやしない」
「いえ、サイファーさんのお仕事が一区切り付くまではお付き合いいたします」
「そうか。律儀な事だ」
 記憶の無い者に何を聴取するというのか。そうは思ったものの、人の誠実さを鼻で笑うほど斜に構えている訳でもない。それならばそれで構わない、と答え、レイを残し資料室へと向かう。
 夜の資料室にはまだ何名かの職員が残っており、各々の業務に黙々と従事している。幸い見覚えのある顔は無く、今の内にと幾つかの必要な資料群を集めて手続きを済ませると、人目を避けながら逃げるように資料室を後にした。何となく、未だに編纂室へ追いやられた自分の姿を知り合いに見られる事に抵抗感があるのだ。
 編纂室へ戻ってくると、レイが何やら目まぐるしく動いていた。夜も更けてきたというのに窓を全て開け放ち、何処から見つけたのか掃除用具まで出している。
「何をしている?」
「部屋が散らかっていましたのでお掃除をと。新聞はそこの棚に日付順に縛っておきましたし、本は本棚に揃えてありますよ」
 レイの言う通り、俺が資料室へ行っている僅かな間に編纂室の中は見違えるようになっていた。床にまで散らばっていた新聞や書類が綺麗に整頓され、あちこちに張り付いていた埃も全て取り除かれている。思い返してみれば、此処へ配属されて以来掃除らしい掃除もしたことはなく、むしろゴミ溜めのようにしておくことで自虐的にすらなっている感があった。だがこの有り様を見ると、それがどれだけずれた考え方だったのかがよく分かる。
「それは有り難いんだがな。明日もあるんだから、今無理にやらなくても構わないぞ」
「もうすぐ終わりますから。サイファーさんはお仕事を続けて下さい。あ、書類はこのケースへ一纏めにしておきました」
「記憶が無いというのに、随分と元気だな」
「病気ではありませんから。それに、多分ですけど私はこういう事が好きだったようです」
 そう言ってレイはにっこりと微笑み、書類を詰め込んだケースをデスクのすぐ隣へと運んだ。ここ最近の仕事に関わった全ての書類だけに相当な重量があるはずだが、レイは案外苦もなく持ち上げている。書類は、こんな閑職である以上大した事が書いてある訳ではないのだが、一応民間人がおいそれと目を通して良いものでもない。部屋を掃除したという事は、多かれ少なかれ、そういった情報にレイの目が触れただろう。幾ら閑職の編纂室と言えど、一人だけで残したのは少し無用心過ぎたと自分を戒める。
 掃除している横で仕事に集中など出来ないものの、取りあえず掃除が終わるまでのんびりと金貨の照合をする事にする。デスクに戻り、資料を広げつつ金貨の刻印との照合を始める。刻印の照合は意外と厄介な作業である。連合内で共通の通貨が存在しない事と、貨幣はその時々の宰相によってデザインが変わるのが常であるため、特に政権の移動が激しい国などは何種類もの貨幣が流通しているケースがある。この金貨も、見たところ幾つか異なる刻印が入り交じっており、比較的不安定な国の通貨だと考えられる。おそらく同一国のものだろうが、そうでなかった場合は調査対象国が広がってしまうため、非常に厄介だ。
 通貨の刻印と年代の照合に四苦八苦している中、いつの間にか気にならなくなっていた周囲の掃除が終わり、レイが雨戸を閉め始めた。意外と集中していたようで、いつの間にか随分と時間が経ったらしい。思い出したように疲労感が襲い、酷使した目がぼやけてくる。
「そう言えば夕食はまだだったな。食べに行こうか」
「何でしたら、私が準備しますけど」
「一応ここは国政の職場でな。食堂以外に炊事場のような設備は無い」
 そうですか、とバツの悪そうに笑うレイに、何となく釣られて俺も口元を綻ばせてしまう。
 そんなレイの表情からはほとんど疲労の色が感じられない。あの距離を歩いた上に編纂室の掃除までしたのだから、少しはくたびれてもおかしくはないのだが。俺とは違って若さ溢れる年頃だから、この程度では疲れたりする事はなく、華奢な四肢をしているせいで見た目によらず体力があるように見えるのか。もっとも、単なるか弱いお嬢さんに、あんな大金を持って密入国するなど出来やしないだろうが。