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 翌朝。普段通りの時間に登庁すると、編纂室の前には既にレイが待っていた。いつもドアに施錠して帰宅するため、中に入ることが出来なかったのだろう。
「おはようございます」
「おはよう。良く眠れたか?」
「はい。拘置所と違って、ちゃんとしたベッドでしたから」
「それは良かった。しばらくはあそこを仮宿にするといい。税金で買ったベッドを余らせるのは無駄だしな」
「私、密入国者ですから納税者ではありませんよ」
「それもそうだ。さて、朝食に行こうか。そろそろ外も混み出してくる」
 荷物を編纂室の中へ置き、連れ立って外の飲食店通りへ赴く。朝のこの時間は出社前の人々が朝食で立ち寄っているため、どの店も賑わいを見せている。しかし、朝は少量で済ませたりそもそも抜いたりする層もあるせいか、昼に比べれば人出は少ないと言える。
 よく通っている通り沿いから曲がってすぐのカフェに入り、店の奥の入り組んだ席へ着いた。普段は窓際やオープンスペースのような日当たりの良い席を選ぶのだけれど、人連れである事と昨日の件があるため、あまり人目には触れたくはなかった。それに、レイがこの国への滞在を許されていない立場という事もある。正式な通達書があるとは言え、入管の真似事はどうにも落ち着かない。
 朝は野菜スープと塩味の固いパンを一つだけ食べるのが常だったが、レイは炒めたジャガイモにサンドイッチやサラダなどと実に食欲旺盛だった。若い事もあるだろうが、普段から規則正しい生活をしていたのだろう。調査はまだ時間がかかりそうなだけに、彼女の健康状態が良好であるのは非常に重要だ。
 ひとしきり食べ終えた所で、熱いコーヒーをゆっくりと舐めるように味わいながら飲む。香気が鼻を抜け、じわりと柔らかい苦味が舌から口内へ広がる。それが随分と久しぶりに美味いと感じた。最近は仕事が充実感と無縁だったからだろう。元々コーヒーは好きだったのだが、この一日で以前のように楽しめるほど心身が良い方向へ向かっているらしい。それだけでもこの厄介事を嫌々受けた甲斐がある。
 遅れてレイも食事を終え、コーヒーを飲み始める。だが砂糖を見ているだけで胸焼けがするほど投入するのには、思わず眉をひそめそうになった。食文化とは関係なく、単に甘党なのではないだろうかと思う。あれではコーヒーの香味が死んでしまうというのに。
 しばらく食後の余韻に浸っていると、ふとレイがカップを手のひらで包みながら口を開いた。
「あの、サイファーさん。実は私、少しだけ思い出した事があるんです」
「何だ?」
「私、何か隠し事があったようなのです。人には言えない、とても重要な事です。それが何なのかまでは思い出せないのですが……」
「重要とはどういった種類だ? 契約的な事とか、違法な事とか」
「多分良くない事だと思います。何かこう、絶対に誰にも打ち明けてはならないというような、強い決心をしていた気がするのです」
「あの大金と関係があるのか?」
「分かりません。あるような、無いような……。そこまでは何だか靄がかっていて」
 普通に考えて、それはあの金貨の事だろう。何か後ろめたい出所の金だとしたら、絶対に口にしてはならない、と慎重になるのか普通だろう。
「それで、もう一つは?」
「はい。私にはとても大切な人が居たのです」
「家族か恋人といった所か?」
「どちらかだと思います。日常的に接していたように思うのです。その時の私はとても良い心地だった気がします」
「まあ、大切な人ならばそうだろうな」
 一概にそうとは言えないものの、大概がそうと仮定しても差し障りはないだろう。正確な関係などは明確になるのに越したことはないのだが。
 そもそも、レイの思い出した事はどれも、思う、気がする、と不確かな事ばかりだ。何か思い出したのはありがたいが、正直調査の手掛かりになるような情報でもない。
「内容はともかく、少しでも思い出せているなら、良い傾向ではあるな。また何か思い出したら、些細なことでも構わないから言ってくれ」
「はい、申し訳ありません。私の事なのに、お手間を取らせてしまって」
 それほど気にしなくてもいい。ここは、そういった慰めの言葉をかけるのが良いのだろうか。そんな事を考えたが、何となく自分の柄では無いように思え、止めた。それに、あまり被疑者に入れ込み過ぎるのも良くはない。
「あの、サイファーさん。一つお訊ねしたいのですが」
「何だ?」
「昨日のあの短剣なのですが、あれは何処にあるのでしょうか?」
 あの革袋の中に金貨と共に入っていた、艶を消した黒い短剣の事だ。暗殺以外に用途の見つからない、とても一般市場には出回らない仕様である。
「俺のデスクの引き出しの中だが」
「返して頂く訳にはいかないでしょうか?」
「返して頂く?」
 何故そんな事をと、思わず鸚鵡返しに問うてしまった。あんな不気味なものを、虫も殺さないような顔をした彼女が欲しがるとはとても思えなかったからだ。
「あれは君の持ち物なのか?」
「そんな気がするんです。私、目が覚めた時からずっと落ち着かなくてそわそわしていたんですけど、それは記憶が無いせいだと思ってて。それで、ふと気付いたんです。あの短剣が私にとってとても大事なものなんじゃないのかって」
「見たから分かるだろうが、あれは一般人が持つには少々物騒な代物だ」
「でも、私の持ち物かも知れません」
「だが、本件の証拠品でもある。そもそもあの短剣の作りは、この国の法律に抵触しかねない。ただでさえ、君の身分は厄介なんだ。渡す訳にはいかない」
「それでも、あれしかもう残っていないのです。だから―――」
 そこまで言いかけたその時だった。不意にレイが口を開けたまま、言葉を無くしたかのように固まってしまう。
「残っていない……? あれしか……? あれ、私……」
 自分で自分の言った言葉を反芻し、困惑し始めるレイ。必死に食い下がったのは何か理由があったようだが、その理由まではっきりと思い出せた訳ではないのだろう。
「その様子では、君の記憶に関係している事だけは確かなのかも知れないな」
「……多分そうだと思います」
 今の様子が演技ではないとして、次に疑問になるのはレイとあの短剣の接点だ。包丁ならともかく、暗殺用の短剣などに関わるような生活をしていた様子は、今日までのレイからは感じられなかった。やはりこれは、裏社会に繋がりのある身内がいたと見るべきだろう。それならば、先程言っていた決心の件も矛盾が無い。暗殺者が身内に居るなど、公言するような阿呆は居ない。
「とにかく、あれは俺が預かっておく。時期が来たら必ず返却するから、それまでは自重してくれないか」
「はい……我侭を言ってすみませんでした」