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 編纂室へ戻って来ると、そこではレイが部屋の掃除をしていた。俺が出掛ける前に、今日はもう休んでいいと言ったはずだったが、どうやら掃除を先にしておきたかったらしい。また一般人を公務の部屋で好き勝手にさせてしまった、俺は迂闊な自分に溜め息をつきたくなった。
「すみません、サイファーさん。もうすぐ終わりますから。あ、そちらの方は?」
「今回の件での協力者だ。北ラングリスに掛け合って貰う」
「初めまして。北西方面の非駐在公使のイライザよ。外交官の真ん中ぐらいの立場の人間と思ってくれて構わないわ」
「こちらこそ、初めまして。レイと申します。よろしくお願いします」
 俺の時とは違い物腰柔らかに話し掛けるイライザと、自分のせいで面倒を掛けていると及び腰のレイ、どことなくぎこちない挨拶を交わしつつ、何とも妙な距離を取る。イライザはレイにとって緊張してしまいがちなタイプなのかもしれない。
「挨拶も済んだ所で。レイ、君は今度こそ休んでくれ。これから打ち合わせがある」
「あの、私はいなくても良いのでしょうか?」
「北ラングリスへの交渉の話だから、居ても難しい話ばかりろう。それに、名前以外にはっきりした情報が無ければどうにもならない」
「そうですか……。分かりました、先に休ませて頂きます」
 少々しゅんと縮まった肩で申し訳なさそうに一礼すると、レイはそそくさと掃除用具を片付けて編纂室を後にした。レイが居てもこれからの打ち合わせには何の役にも立たないのは確かなのだけれど、何となくあの仕草には罪悪感を感じさせるものがある。
「あの子が密入国者なの。思ったよりも華奢な感じね」
「まあ確かに、あのなりでは密入国をするようには見えない。それに密入国とは言っても状況証拠だけだからな」
「身分を証明する事が出来なければ、密入国。法律の欠陥を感じさせるわね」
 しかし、レイがこの国の人間ではない可能性は極めて高いと思う。食事の件もそうだし、何よりもあの荷物の中身が、少なくともまともな経緯で入国したとは考え難くしている。
「それで、あなたの根拠とは何なのかしら?」
「ああ、これを見てくれ」
 そう言ってデスクの上に、あの革袋の中身を一握りほど広げて見せた。この国のものではない刻印の、途方も無い量の金貨である。イライザもこれは予想していなかったらしく、驚きでぎょっと目を剥いた。
「凄い量……。なるほど、刻印は北ラングリスのものね。それで私の所へ来た訳。これをあの子が持っていたの?」
「正確に言うと、彼女が目を覚ました小屋の炭焼き窯の中にあった。今時点での、最も古い記憶ということだな。そしてもう一つ」
 金貨を検分するイライザに、革袋の中にあったあの黒い短剣を手渡した。すると今度は、ひどく訝しい目つきで眉をひそめた。
「なにこれ……暗殺剣じゃない。しかも血までついて」
「金貨と一緒にあったものだ。彼女はどうやらこの短剣に僅かながら覚えがあるらしく、かなり強く執着している」
「そうなの。でもこの短剣……」
 不意にイライザの顔付きが一層険しくなる。
「どうかしたか?」
「もしもこの件に深入りするつもりなら、あなた相当厄介な事になるわよ」
「どういう意味だ?」
「北ラングリスと対立中の南ラングリスだけど、あそこには黒蜥蜴という暗殺組織があるの。この短剣はその組織の物よ。私も一度狙われた事があって、その時は暗殺者は警備兵に殺されたんだけど。そいつが所持していた短剣を回収した時に、これと同じ物を見て触って確認した事があるから、間違い無いわ」
「つまり、レイは南ラングリスの出身である可能性もあるという事か。なら、そちらにも問い合わせれば良いんじゃないか?」
「そういう簡単な問題じゃないの。黒蜥蜴は報酬次第でどんな仕事も請け負うけれど、南ラングリスにはもう一つ暗殺組織があるの。白薔薇といって、こちらは排斥主義のガチガチの保守派。ずっと両者は対立していて抗争の規模も拡大、それがつい最近決着がついた所なの」
「どうなったんだ?」
「白薔薇は組織の半分以上を失ったものの、黒蜥蜴は壊滅へ追い込まれたわ。僅かな生き残りは散り散りだそうよ。その上、白薔薇は残党狩りに躍起になってる。国内外問わずね」
「出張までするとは、随分過激な排斥主義だな」
「笑い事じゃないわ。彼女、この短剣は自分の物だと言っていたわね?」
「そんな様子だった。自分の物なのか、誰かに貰ったか、そこら辺は曖昧だったが」
「彼女、もしかすると黒蜥蜴の生き残りかも知れないわ」
「まさか! まだ会って間もないが、そういう事に関わっていた人間かどうかくらい分かるさ。彼女は暗殺稼業とは無関係だ」
「本当にそう言い切れる? 変装に潜入は黒蜥蜴の得意技よ。記憶喪失だって、どこまで信じていいのやら」
 イライザの鋭い眼差しに、俺は思わず持論へ疑いを持ってしまった。イライザの推察は俄には信じ難いものがある。だが、辻褄は合っている。元暗殺者なら暗殺用の短剣などを所持していても何らおかしくはないし、この途方もない金も逃亡資金という事ならば妥当な量である。
 では記憶喪失は偶発的な事故なのだろうか? 幾ら変装や潜入が得意で、あらゆる人柄を演じ分けられるとしても、嫌でも目立つ記憶喪失の人間を演じる理由が思い当たらない。けれど、身分証のない状況が作為的ではないとは決して言い切れもしない。
「ともかく、約束した以上はラングリス両国への問い合わせはするわ。それで結果はどうあれ、後はあなたが判断する事ね。私は深入りするつもりはないから」
「分かってるさ。そこまで丸投げするつもりはない」
「身柄の送還は、彼女が黒蜥蜴とは無関係と断定してからの方が懸命よ。あなたも白薔薇にとっては排斥対象でしかないのだから」
「御忠告感謝するよ」
「いつもそうね。そうやって軽い返事をする時は決まって、人の忠告に従わないんだもの」
 そんなに俺は頑なだっただろうか。半笑いでイライザに語り掛けると、予想外に冷たい視線を突き刺され、ふざけ半分だった心境に冷水を浴びせられた。どうも彼女とは、付き合いが長いというのに昔からそりの合わない所がある。相性が良いように思えて、本質的には正反対だからなのだろう。
「それじゃ、私は戻るわ。何かあったら連絡するから」
「分かったよ。宜しく頼む。ああ、そうだ」
「まだ何かあるの?」
「例の暗殺組織の事なんだが、彼女には黙っていてくれ。記憶が無くて不安がっている所に、そんな刺激の強い情報はまだ耳に入れてやりたくない」
「あなたが他人に優しいなんて珍しいわね」
「茶化すな。真面目な話だ」
「考えが甘くなったって言ったのよ。ま、安心して。此処での話は他言するつもりはないわ。誰にも、一切」