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 三者三様の表情を窺いながらも、俺は自分の出すべき返答には意外なほど苦心しなかった。
「閣下の御事情は分かりました。そういう事でしたら、私も協力は惜しみません。ただ一つ、問題があります」
 俺が注文をつけた事で、更にイライザの表情が強張ったが、俺は敢えて気付かない振りをした。
「ほう、伺うとしよう」
「実は彼女は、こちらで保護した時から既に記憶喪失状態なのです。そうなった経緯や原因も、未だ分かっていません。そのため、今も非常に過敏でデリケートな心理状態に置かれています。今回貴国へ問い合わせさせて頂いたのも、そういった経緯からの事でした」
「ほう、記憶喪失の密入国者と。これはまた随分と珍しい―――いや、失敬。当人にしてみれば、とても冗談では済まない事だね」
「身元も何もはっきりとした事が無い以上、彼女の実質的な保護責任者は、担当官である私だけです。ですから、私には彼女の健康面についても出来る限り配慮しなければなりません」
「治療が必要とあらば、医者ぐらいはこちらでも手配するよ」
「それは勿論ですが、そもそも彼女は自国の記憶がありません。彼女にとっては見知らぬ土地へ、あたら放り出す訳にはいかないのです」
「それはつまり、協力は拒むという事かね?」
 表情こそ穏やかなままではあるが、言葉に込められた迫が強まる。明らかにこちらを威圧している態度でる。しかし、俺はこちらも敢えて言葉を少しばかり強めた。
「いいえ、そういった意図ではありません。彼女がこのような状態ですから、保護責任者として私の同行も認めて頂きたいのです。無論、そちらの指示には従いますし、取り調べに関しても同席させて頂くだけでも結構。余計なお手間は決して取らせません」
「わざわざ君が当方までやってくるというのかね? たかが密入国者一人のために。いやしかし、護送に関しては既に手配が―――」
 ノルベルト大使の言葉に、僅かに動揺の色が出る。どうやら、この出方は想像していなかったらしい。これは好機とはかりに、俺は更に言葉を畳み掛ける。
「閣下、私は閑職で冷や飯を食む身です。どうかこれ以上、私の仕事を奪わないで頂きたい」
 俺の言い分に遂に堪えきれなくなったらしく、イライザが猛然とした表情で立ち上がる。自分の都合を外交のテーブルへ持ち出すな、といった内容で怒鳴りつけようとしたのだろう。しかし、それよりも先にノルベルト大使は自分の太腿をぴしゃりと打って小気味良い音を鳴らした。
「ハハッ、面白い事を言う男だ。話に聞いていたよりも、よほど仕事熱心と見える。宜しい、君に免じて許可しようじゃないか。苦労をしたがる若者を見るのは、実に久し振りだからね」
 さも愉快そうに笑うノルベルト大使。その様子にイライザは呆気にとられ、毒気を抜かれたようにすごすごと席へ戻った。
 どうにか大使の許可を取り付ける事が出来た。しかしそこには、要求を飲ませた達成感や安堵感はほとんど無く、むしろ不安感が増していた。こちらから請願した以上、これは大使へ借りを作った事になる。外交で白紙のカードを切るのがどれだけ危険な事かくらい、俺でも分かる事だ。
「失礼いたします。閣下、お時間です」
 丁度話の区切りで、大使の随行員が入室し時間の事を告げる。どうやら次の予定が決まっているらしい。
「さて、そういう事だから私はそろそろ失礼させて頂こう。細かな取り決めについては、後ほど人をやろう。君が納得するように段取りを調整してくれたまえ」
「お心遣い、感謝いたします」
 ノルベルト大使は最後までにこやかなまま退室した。虚礼的な表情だろうが、実際腹の内ではこちらをどう思っているのか、推し量るのはなかなか難しいものがある。腹の探り合いは得意な方だと自負があるが、大使のようなそれを日常で繰り広げている人物相手には分が悪いだろう。
「馬鹿も此処までくると立派なものね」
 大使達の足音が部屋の外から遠ざかるや否や、いきなりイライザは皮肉をたっぷり込めて、吐き捨てるようにそう言い放った。
「大使には、あなたは物分かりの良い好人物だと、せっかく下駄を履かせて伝えてあげたのに」
「それこそ余計だ。俺はどちらでもない」
「いいえ、物分かりは悪い方よ。何故わざわざ大使が訪問したのか、あなたは意図も考えていないのでしょう? それをいけしゃあしゃあと要求まで突き付けて。素直に要求に従っていれば、皆が避けた案件を早期に片付いて、あなたも上司の鼻をあかしてやれたでしょうに」
「そんなつもりで仕事をしている訳じゃない。そもそもお前が初めから、俺はそういう人間だと伝えていれば良かったんだ。下手な嘘などつかずに」
 イライザは自分なりに気を利かせたつもりなのだろう。多分その点にだけは偽りはないだろうが、それだけに余計腹が立った。まるで自分の考えの方が正しいとばかりに、そんな押し付けがましさしか感じられない。確かに助けを請いはしたが、進行のコーディネートまで頼んだ覚えは無いのだ。例え好意でも、余計な事は時計な事なのだ。
「あ、あの、すみません。何か、私の為に大変な事になってしまって……」
「君が気にする必要はない」
「そうよ。これは、この男の問題だから」
「何故そうなる。何も問題などない。交渉はうまくいったじゃないか」
「表面的にはね」
「その建て前が大事なんだろう? あんたらの仕事は」
「人に頼んでおきながら、随分な言い草ね。まあ、後は勝手にするがいいわ。せいぜい納得のいくように頑張りなさい」
「言われるまでもない」