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 思っていたより疲れが溜まっていたのだろうか、その汽笛を耳にするまで俺は、自分が南ラングリスの船に乗っている事すら思い出せないほど深く眠っていた。
 慌てて飛び起き、これまでの出来事を整理しながら客室を見渡す。此処は随行員の青年に案内された一等客室で、そのベッドの上で俺は今の今までぐっすりと眠りこけていたのだ。一体今は何時なのだろうか、日付の変わるか変わらないかの夜中である事に違いはないが、何となく頭がうまく回らず状況が把握出来ない。
 カーテンを開けて外の様子を覗いてみる。船の外灯が海に反射し、群青色の水面がゆらゆらと僅かな白波を立てて揺れているのが見えた。そこでふと、俺は違和感を感じ背筋がざわついた。今日の天気は知らないが、外海はこれほど波が穏やかなものではない。どれだけ風が静かだろうと、海流のうねりがもっと激しく波を立たせるはずだ。特にセディアランド近海は海流が複雑で、特殊な砕波船首が無ければ航行出来ない海域も少なくない。南ラングリスへの航路には、そういった海域を縦断しなければならない箇所は無数にあったはずだ。
「此処は何処だ……?」
 ぽつりと緊張感無く声に出して呟く。直後、再び汽笛が鳴り、そして突然の頭痛が脳裏に走った。
 何かがおかしい。何故、こんな所で汽笛を鳴らすのか。そもそも此処はどこの海域なのだ。
 ふらつきながらもベッドから立ち上がり、ランタンを灯して良く部屋を見渡す。テーブルの上に手付かずで置いていた水差しの水を口にすると、幾分頭痛は和らぎ、思考が少しずつ定まって来た。
 汽笛には幾つもパターンがあり、それで船舶の規模や操舵状況などを周囲に知らせる事が出来る。基本的なパターンは新人の頃に覚えさせられたが、この汽笛はいずれにも当てはまらないものだ。これは何を意味するのか、そこから先を考えようとしてもやはり妙な靄がかった感覚が頭を支配し、どうにも思考が続いてくれない。
 この感覚、何処かで覚えがある。それが何なのか、すぐにでも思い出さなければ、とてつもない危機が迫っているような気がする。一心不乱に、呪文のように自分へ思い出す事を強い続ける。そしてどれぐらいか経った後、三回目の汽笛が聞こえて来たと同時に、唐突に昔のイライザの声が脳裏を過ぎり、それを思い出した。
「催眠剤……」
 そう、新人研修の一環で、尋問に使われる薬物の基礎知識として実際に効能を体験させられた事がある。あれは今のように思考が定まらなくなるし、切れかけた時は今のに似た酷い頭痛がした。
 途端に走った緊張感が、急激に体温を上げ体の機能を平素へと近づけさせる。思考の靄も大きく晴れ、現状を見る目がクリアになった。どうやらまだ研修時代についた耐性は衰えていないようである。
 おそらく飲まされたのは、服用を確認出来る夜の会食の時だろう。それから眠気を催して客室へ戻り、数時間の間は薬の倦怠感で昏倒していた。レイも俺と同じものを服用させられたと思って間違いない。問題は、何故そんな事をするのかだ。この逃げ場の無い海上で。
 俺はそっと出入口のドアに近づき、外の気配を探る。鍵穴から覗いてみると、案の定見張りと思しきスーツ姿の男が一人、こちらのドアと真向かいの部屋のドアに挟まれた位置に陣取り、椅子にどっしりと座っている。
 レイの部屋は丁度真向かいだから、見張りの位置を考えれば、まだあの部屋に居るだろう。相手は一人、不意を突けば倒せる。そんな強行手段を考えたものの、レイが動ける状態であるとは限らず、実際に部屋に居るかどうかも確認出来ていない以上はリスクがあまりに高過ぎる。それに、仮に合流出来たとしても、肝心の逃げ出す手段自体が無い。
 では、どうするのが最善の手段か。
 そっとベッドへ戻り、横になりながら幾つか手立てを試行錯誤する。だが、どうしても取れる手段は一つに限られてくる。船が何処かへ到着し船を降りた際、不意を突いてレイを奪還し逃亡する。それ以外に方法はない。けれど、そう都合良くレイと合流出来る保証も無い。どちらかと言えば、身柄としての価値は俺の方が無いだろう。相手の目的如何によっては、先に殺される可能性もある。
 敵の正体は何者なのか。ノルベルト大使の随行員に成り済ましてまで我々の身柄をさらった、その目的は何なのか。
 言い知れぬ不安から、ベッドの側へ掛けていた上着の内側へ手を伸ばす。そこには出掛けに忍ばせていた通り、あの暗殺剣の感触があった。このまま帰国まで忍ばせておくつもりだったが、時が来てしまったら頼らざるを得ないだろう。この状況で丸腰ではあまりに心許なさ過ぎる。
 しばらくベッドに横たわっていると、三度汽笛が聞こえて来た。今度は前よりも間隔が短い。何となく何かの合図のように思え、もう一度窓から外の様子を窺う。するとそこには、幾つもの倉庫が建ち並ぶどこかの港のような景色が広がっていた。やはりあの波の静さからして、既にこの船は何処かの国の湾内に入っているようだ。
 まもなく船が止まるだろう。俺の部屋にも迎えが来るかもしれない。その時にレイと合流出来るかは分からないが、取り敢えずは未だ薬の効いている振りをしていた方がいいだろう。
 俺は暗殺剣を上着から取り出すと、それを左手の袖の中へそっと忍ばせた。その薄い作りは隠し持つのには非常に都合が良く、忍ばすのも取り出すのも自在である。つくづくこういう状況ではありがたく思えてしまった。
 ふと脳裏を、別れ際のイライザの言葉が過ぎった。確かに彼女の言う通りにしていれば、今頃こんな得体の知れない状況には巻き込まれなかっただろう。だが、それは結果論でしかないし、何よりレイ一人を放り出すような真似はしたくない、という大前提がある。面倒事と知っていて引き受けたのだから、完遂するまでは意地だろうなんだろうと投げ出す訳にはいかない。
 自分の選択に何ら間違いはない。そう何度も唱え続け、焦りと不安で揺れている気持ちを落ち着ける。