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 馬車の心地良い揺れが突然止まり、半分眠っていた俺はワンテンポ遅れて飛び起きた。窓の外を見ると、そこはどこか倉庫の中らしく、古びた壁と大小様々な木箱が雑然と並んでいるのが目に入った。
「到着ですよ。さあ、御案内いたしましょう」
 外から馬車のドアが開けられ、筋骨隆々とした男達が恭しくロイドを迎える。おそらくロイドの会社で働いてる人夫だろう。ここは彼らの仕事場の一つといったところだろうか。
 ロイドに続き、俺もレイを抱き抱えて馬車を降りる。この人夫達が力付くで拘束しかかってくるのではないかと警戒していたが、彼らはロイド同様に俺達にも恭しい態度のままだった。裏を返せば、彼らも俺達のただならぬ素性を知っているという事だ。
「彼らについてはご心配及びませんよ。私の意図を良く理解して頂いている協力者ですから」
「ああ。それで、此処が当面の隠れ家という事か?」
「私の会社が所有する、市内の倉庫の一つです。普段から人の出入りが多く、かえって目を欺くには最適の場所ですよ」
「仮にばれたとしても、人目が多いため下手な手出しは出来ないという訳か」
「御明察の通りです。さ、こちらへ」
 ロイドは殺風景な倉庫の隅へ俺達を案内する。そんな所に何があるのか、と小首を傾げていると、すぐさま屈強な男達がロイドの目の前の床に張り付き、掛け声と共にそこに敷かれていた何かを剥がした。それは一枚の大きな鉄板で、その下からは地下へ続くらしい大きな階段が現れた。どうやら隠し階段のようである。
「地下室か。確かに身を隠すには最適だな」
「無論、それだけではありませんよ」
 そう笑うロイドはどこか自慢気な表情に見えた。仕事柄金持ちの家に赴く事は多々あるが、そのいずれも此方の素性を知らない内は、決まって建物の内装やコレクションの類を見せて悦に入る。ロイドの表情もどこかそれに近いものを感じさせた。
 階段を降りきると、そこからはほぼ一本道の地下道だった。だがそれも意外と長くは続かず、間もなく天井からうっすらと夜明け前の薄明かりが差し込んで来た。地下道にしては随分な採光だと頭上を見上げると、そこは一面ガラス張りになっていて、何やら生い茂る木々の影もある。
「今は何処を歩いているんだ?」
「丁度倉庫前の通りを渡ったすぐ目の前の、切り崩した小山の中です。此処には私が寄付した公園がありましてね。そこの敷地内の建物にお部屋を用意しているのですよ。外からは部屋があるようには見えませんし、人が住んでいようとも気付きません。出入り口は先程の所のみ、この通路も容易には気付かれない場所へ偽装を施しております。お部屋も、十分な採光と新鮮な空気を味わって頂けますので、窮屈には感じないはずです」
「潜伏先にしては随分と贅沢な作りだ。そもそも何故設計してまで用意を?」
「これはかつて、とある方のために御用意したものですから」
「単なる逃亡者には聞こえないが」
「さる高貴なお方、とだけ。今はとある国に政治亡命されておられます」
「なるほど。潜伏中でも贅沢病が抜けなかったか」
 本来、潜伏先というものは人の出入りが激しく他人に興味を持たない、そういった大都市やスラムの片隅にひっそりと作るものだ。リゾートが目的ではないのだから、わざわざ金を掛けてまで設計する必要は無い。もっとも、だからこそ誰もそうだと疑ったりしないのかも知れない。かつては逃亡した脱税犯を追う事があったが、いずれも襤褸を纏って巧妙に身分を偽っていた。
 通路の突き当たりまで来ると、そこには壁一面程もある大きな両扉があった。そしてその傍らには、またしても屈強な大男が二人、門番のように待ちか構えている。彼らはロイドを見るや否や、たちまち背筋を伸ばして直立した。
「この通り、一際腕の立つ者を昼夜問わず番をさせております。万が一の場合も御安心下さい」
 ロイドが顎で指図すると、男達は扉にそれぞれ手をかけて開いた。豪奢な装いの扉立ったが、実際はかなり重量があるらしく、見た目に反して重苦しい音を鳴らした。
 ロイドに続いて部屋の中へ入る。そこは、上流階級と言うより成金の人間が好みそうな、如何にも豪華に飾った客室だった。目の痛くなるような装飾の家具に、酒の詰まったキャビネット、十年は退屈しないであろう数の本棚、ベッドルーム等の別室も幾つか作られている。天井に付けられた大きな天窓からは群青色の空が見える。ここから外の空気を取り込むのだろう。見れば見るほど、高級ホテルの特別室でもこうはいかない金の掛かった豪華な内装である。あまりの光景に俺は、設計者よりもこれを要求した人間の神経を疑いたい心境になった。
「医者は間もなく到着いたします。レイ様はそちらの寝室へどうぞ。この部屋の物は御自由に使って頂いて結構です。何か足りない物がございましたら、外の者へ何なりとお申し付け下さい」
「何から何まですまないな。ここまで気を使って貰わなくとも良かったんだが」
「いいえ、レイ様は私にとっては救国の英雄とも呼ぶべきお方ですから。この程度は当然の事で御座います」
 そう恭しく答えるロイド。しかし、俺は全面的に信用している訳ではなく、そのせいかロイドの言動がやたら演技がかっているように見えてならなかった。
 ともかく、今は彼の力に頼るしか方法が無いのも事実である。一度体勢を立て直して、最善となりうる選択を模索するしかない。
「それでは私はこれで。今晩またお伺いいたしますので、何かお気になる事がございましたら、その折にでも」
「ああ、ありがとう。感謝する」