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 何て事だ。俺は思わず頭を抱えそうになった。
 レイが催眠剤を飲んだ経験があるというのが、俄に信憑性を帯びてしまった。レイがセディアランドへ密入国する要因となった、かなり核心に近い事実である。
 何者かに、何らかの理由で催眠剤を服用させられ、あの場所へ連れて来られた。大雑把だが、自然でもあり筋も通る。後はそんな工作を必要とする理由だが、傍らにあれだけの大金があるのだから、幾らでも理由は考えられる。この世には、焦臭い金の出所なんて数え切れないほどある。そしてそこには大概、訳の分からない顛末を迎える事件が見え隠れしているものだ。
「誰に飲まされたとか、意識を無くす前の事は憶えていないのか?」
「今お話しただけの事しか思い出せません。自分で意図的に飲んだ訳ではないのは確かだと思うのですが」
 やはり誰かに飲まされたのだろう。その上で拉致されたとするなら、まず最初に疑うのは人身売買だ。けれど、セディアランドには政府が把握している範囲では国内にそういった市場は無い。それに、たった一人を、それすらも失敗するような運び方をするとは考えにくい。第一、それではあの大金と暗殺剣の説明が付かなくなる。
 ならば、暗殺事件の首謀者として逮捕される事を恐れ、密かに逃亡した先がセディアランドだった可能性はどうか。それだと、今度は催眠剤を飲まされた経緯が分からなくなる。それに、うっすら残る記憶とも辻褄が合わなくなりそうだ。
 まだレイの素姓や身の上には裏がありそうに思う。本人が何処まで自覚しているかは分からないが、既に社会的にそれなりの肩書きを持った人間がこれだけ動いているのだ。生半な事で済ますのは難しいだろう。
「あの、サイファーさんは平気だったのですか? 同じ薬を飲んだのでは?」
「ああ、俺は訓練しているからな」
「訓練?」
「新人時代の研修の一環でな。一通り、自白用や拷問用の薬物は経験している。催眠剤は、名前の数は多いが主成分の種類はさほど無くてな、そのどれにも耐性が付くように何度も飲まされた」
「何か、凄い訓練ですね……」
「飲んでボーっとするだけならいいさ。一番辛いのは、その状態で追いかけっこをさせられたり、擬似的な拷問を受ける事だ。そこで下手に弱音を吐けば、懲罰房へ入れられてしまう。そういった状況に負けない精神力を養うのが目的だから当然だろうが、今でもあの当時の事は夢に見てうなされる。諜報員志望でも無いのに誰でも一律に受けさせる、あんな旧態依然の訓練は二度と御免だな」
「でも、今回は役に立ったのではないですか?」
「そういう状況に陥った時点で、既に失態さ。交渉で争い事を回避するのが、そもそも役人の仕事だ。それが、荒事は苦手なのに、下手くそな剣術まで使ってしまった」
 そうですか、と残念そうにレイは答え小さくしょぼくれる。どうにも、物事の悪い部分を自分に原因があると考えてしまう性質のようである。今後、少し自分の言動には注意した方が良さそうである。
「あの、サイファーさん。一つ訊いても良いですか?」
「機密に触れない範囲なら構わない」
「先程、色々な薬を飲まされた、って仰いましたよね? そういう危ない薬の中には、記憶を無くす薬ってあるのでしょうか?」
「記憶を、ね。それを目的とした薬は無かったな。研究中ではある、とは噂で聞いた事はあるが、どこまで本当やら」
「やはり有り得ないのでしょうか」
「いや、そうとも言い切れない。さっき言った催眠剤でも、副作用として稀にしばらくの間記憶が飛ぶ事がある。正確には、記憶が消えるというよりは辻褄が合わなくて混乱する、の方が正しいか。少量ならまず起こり得ないのだが、訓練中に何度かそういう奴を見た事があるし、俺も経験がある。小一時間程度だが物と名前が一致しなくなったり、知り合いの顔が認識出来なくなったりしてな。確かにあれは、記憶喪失と言うのが一番手っ取り早かったな」
「飲み過ぎるとそうなるのでしょうか?」
「量もあるが、体質もあるな。食中りみたいなものさ。たまたま体調が悪くて、偶然強く効いてしまったりする事もある」
 と、そこまで話した自分の言葉で、ふと一つの推論が浮かんだ。
 そう、催眠剤にはそういった副作用を起こす症例もあるのだ。
「どうかされました?」
「いや……。あくまで憶測なんだが、もしかすると君の記憶喪失はそれが原因かも知れない」
「どういう事でしょうか?」
「一度に多量の催眠剤を飲まされて、今は普通よりも重い記憶の混乱状態にあるかも知れないという事だ」
「混乱……つまり、忘れている訳ではないという事でしょうか? 自覚が無いだけで」
「そういう事だ。単にポケットの中身があちこちにシャッフルされただけで、無くなってしまった訳じゃない。いずれ時間と共に戻っていくはずだ。人間の記憶は、常に少しずつ正しい位置に整理されているのだから」
 それならば、初めから記憶が戻るまでセディアランドでじっと療養させた方が無難だったのではないだろうか。
 ノルベルト大使の奸計にまんまとかかってしまった自分の軽率さを一瞬悔やんだが、あれはセディアランドとしての体面も守らなければならなかったから、判断としては妥当なものだったはずだ。その結果、こんな状況下に置かれてしまったのもあくまで結果論にしか過ぎない。
「良かった! それじゃあ、いつかは私の記憶は元に戻りますし、それで万事解決しますね」
「それは……いや、そうだな。全て丸く片がつく。時間の問題さ」
 本当はそんな簡単なものではない。もはやレイの記憶がどうなろうと、大勢には関係のない状況なのだ。むしろ、記憶が戻る事を厄介だと思う人間が出て来ない事を祈る程である。俺は既に誰もが敵に見えて来ているし、更に敵が増えてくるかもしれない不安が付き纏っている。かつての、勇んで踏みつけた尾が自国の名士達と知った時とは比べ物にならない重圧だ。
 あの大金と、黒蜥蜴の暗殺剣。そこへ関わる者達と、国家間政争。どう考えても丸く収まりそうにない構図だ。最悪懲戒を受けても仕方がないと思っていたが、それだけで済みそうにない事態も現実味を帯びて来ている。だから、何か強いカードが欲しい。それを切に願った。このままでは、波間に浮かぶ木っ端と同じように、意志と無関係に状況が動いてしまう。それでは、俺達にとって最善の結末に結び付く可能性は無いだろう。
 何とかしてセディアランド政府と連絡を取らなければ。今はそこにしか突破口が見つけられそうにない。選択肢が乏し過ぎるのは仕方無いが、まずそこに望みを託す他無いだろう。
「あの、そろそろお茶にしませんか? 差し出がましいようですけど、あまり昼間からお酒は良くないと思います」
「そうだな。確かにそうだ。一つ濃いめで淹れてくれないか。酔いが醒めるように」
 こちらの苦悩を知ってか知らずか呑気な言葉を掛けてくるレイ、そんな雰囲気に飲まれたらしく、俺は不思議と笑みを浮かべてしまった。レイも普段のおっとりした笑顔を浮かべ、いそいそとお茶の準備を始める。普段はどうにも暢気で記憶喪失という悲壮感を感じさせない彼女は、こうして何か家事をしている時が一番生き生きしていると思う。だからこのような仮家ではなく、本来の家で従事させてやりたい。
 彼女がロイドの言うような暗殺者では無いと、俺は信じている。だがその一方で、黒蜥蜴は潜入が得意なのだから人を欺くなど朝飯前のはず、という疑念も消せない。これが俺とレイの距離感である。いざとなれば、彼女を切り捨てられるのか。そんな不安を覚える位置だ。
 どちらにしても、今はこれまで通りレイの保護役に徹しようと思う。真相がどうであれ、レイの身元をはっきりとさせた上で母国へ帰す、余計な雑念を抱かずそれだけを最終目的としていれば良いのだ。