戻る

 花崗岩の岩肌をよじ登り、岩と岩の間に隠れるようにぽっかり空いた洞穴へ入り込む。外観はかなり狭く感じたものの、内部に進むに連れて大きく広がっていき、最後は軽く跳んでも天井に手が届かない程の規模になった。
 中は薄暗いせいでどういった構造になっているかはよく分からないが、壁を触った感触は花崗岩とはまた違って滑っており、恐らく鍾乳洞の一種なのではないかと憶測する。
「凄いな。これならまず誰にも見つからないだろう。しかし、どうして此処を知っていたんだ?」
「私、昔に此処を通った記憶があるんです。それで」
「通った? これは何処かに続いているのか?」
「多分ですけど……南ラングリスです」
「という事は、これは国境を跨いでいるのか」
 ただの隠れ家代わりにと思っていたが、随分大層な代物だったようである。それよりも、どうしてレイがこんな物を知っているのだろうか。ただの民間人なら、こんな政府が把握していないような場所などにそもそも縁すら無いはずだが。
「あっ、サイファーさん。腕を怪我してるじゃないですか。ちょっと見せて下さい」
 その時、突然と声を上げたレイは有無を言わさず俺の上着を剥ぐと、右腕を取って血の滲んだシャツの袖を肩口まで一気に引き裂いた。薄手とは言え、素手でこんな見事に裂けるものなのかと、思わずその手際に目を丸くする。
「もうちょっと日が入る方まで戻りましょう。傷口を診ますので」
「あ、ああ」
 入り口近くに差し込む日の光を頼りに、レイは右腕の傷を確認を始める。医者のような診察とは違ったが、何処かやり慣れている雰囲気があった。明らかに血に対する抵抗感が無い。例え女性でも、それなりに大きな傷を目にしたらば、多かれ少なかれ後込みするのが普通であるのだが。記憶を失う前は看護職に就いていたのか、それとも日常的に血を見るような環境に居たのか―――。
「そんなに酷くはありませんけど、一応縫った方が良さそうですね。それに、血が出過ぎたから、体力も落ちていると思います」
「少しくらいなら問題は無いさ」
「まさか、血を抜いたりする訓練もあったのですか?」
「いや、そういう意味じゃない。単なる体力の話だ」
 レイからすると俺は、よほど特殊な訓練ばかり受けてきた万能人間のように見えるのだろうか。確かに地味なデスクワークばかりの仕事をしている割に、一般人では有り得ない経験を多く積んで来てはいるが。
 レイは自分のハンカチとスカーフを使い、出血が続かないよう傷口を縛った。俺も応急手当てのやり方は習っているが、まさにそれに沿った実に手慣れた処置が施された。この技術も一体何処で憶えたのだろうか。ただの一般人なら、止血帯一つ作る事もままならないものだが。
「時々緩めれば、取り敢えずは大丈夫だと思います。何か治療道具があれば、もっときちんと出来るんですが」
「日が落ちてからでも、外へ買い出しへ行けばいいさ。その頃には多少この辺りも落ち着いてくるはずだ。それよりもだ、この洞穴が南ラングリスへ続いているのは確かなのか?」
「はい。恐らくなんですが、私、子供の頃に南ラングリスへ密入国しているんです。お母さんと。その記憶があって、だから間違いありません」
「密入国? つまり、元は北ラングリスの出身で、南ラングリスへ移り住んだという事なのか。父親はどうしたんだ?」
「分かりません。お母さんは教えてくれませんでした。ある日突然いなくなってしまって。私が小さい頃に離婚したのか、あるいは亡くなったのかも知れません」
 レイの国籍は一層複雑になってきた。北ラングリスで産まれたのであれば、国籍は北ラングリスになるだろう。けれど、実生活は途中で南ラングリスへ移っている。この時、戸籍を南ラングリスで偽造していたり、もしくは生活の実態が一定期間あれば戸籍が発生するような法律がある場合、南ラングリス、もしくは南北両方の二重国籍となる。こうなると、送還先はどちらでも良く、またどちらにしても問題の火種となる可能性が出て来る。
「取り敢えず、南ラングリスへ行けば何か分かるかも知れないな。それに、南ラングリスはセディアランドと正式な国交がある。大使館があるはずだから、そこに行って委任状を提示すれば、力を貸してくれるはずだ。ここから南ラングリスまでは距離は遠いのか?」
「子供の記憶でしたから……。でも、少なくとも一晩は必要だと思います」
「となると、このまますぐという訳にはいかないか。よし、日が落ちてから一度必要な物を揃えて、それから出発するとしよう。少なくとも、何か明かりが無くては進めないだろうしな」
「はい、分かりました。お手数をお掛けします」
「いいさ、そういう仕事だ。それより、他に何か思い出した事があるなら聞かせて貰えないか? このまま夜まで時間を潰さなくてはいけない事だし」
「あ、はい。ですが、あまり大したことはありませんけれど」
 いつものように、どこか自信なさげな素振りを見せながら一度咳払いすると、ゆっくりと内容を確かめるようにしてレイは話し始めた。
「私のお母さんは元々南ラングリスの出身だったそうです。もっとも、お母さんが産まれた頃はまだ南北に分かれてなかったそうで。内戦は始まってはいたようですが、最初はこんな事になるとは思わなかったようです。多分、ちょっとした小競り合い程度しか起こっていなかったんだと思います」
「南ラングリスへ移ってからは、生活はどうしていたんだ? 母親の親戚を頼ったのか?」
「あまり良くは分からないのですが、そういう人はいなかったと思います。だから生活は苦しかったです。お母さんも仕事であまり家には居ませんでした。だから、いつも留守番ばかりで」
「そうか。それは寂しかっただろうな」
「いえ、そうでもありませんでした。いつも良く遊んでいた人が居ましたから」
「友人か?」
「えっと……まだ良く思い出せません。いつも一緒に居たという事だけうっすら憶えていて。確か、凄く甘えん坊な人だったと思います」
「甘えん坊、か。同じように親が働きに出ていて、なかなか帰って来なかったのかも知れないな」
 大方、近所に住んでいる似たような境遇の子供だろう。甘えん坊という事は、年下で母親のいない子供とも考えられる。そういう同情に似た心境で仲良くなる事は、子供のみならず大人でもさほど珍しい事ではない。
「何故、南ラングリスへ移り住む事になったんだ? 不法入国はあまりにリスクが高いから、並大抵の理由では実践しないだろう。父親にでも問題があったのか?」
「分かりません。知っていたような気もしますけど……まだ記憶が混乱している感じで」
「そうか。母親の事はどうだ?」
「それも。ただ、子供の頃の記憶にしか母が居ないような気がします。もしかすると、もうこの世には居ないのかも知れません」