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 三人。レイは母親と二人で暮らしていたのではなかったのだろうか。
「三人とは、もう一人は一体誰の事だ?」
「えっ、誰の事ですか?」
「だから、今言った三人での下りだ。君と母親ともう一人で、この料理を食べたんじゃなかったのか?」
「それは……三人……誰の事なのでしょうか?」
「俺に訊かれてもな。思い出せないのか?」
「分かりません……分かるような、分からないような……」
 そう答え、レイは俯いてしまった。
 記憶が順番通りに思い出せなかったのだろうか、レイはいささか自分の記憶に混乱しているように俺には見えた。
 確かレイはセディアランドで、自分には大切な人が居た気がする、と話していた。それは恐らく母親の事だろうが、もう一人居るとなるとまた話はニュアンスが変わってくる。実際は、父親は北ラングリスに残らず、一緒に南へ渡ったのではないだろうか? あの洞穴を女手だけで抜けるのは大分勇気が要るように思うし、その方が自然と考えられるのだが。
 ともかく、無理に記憶を照合させ早急に特定しようとするべきではない。レイが混乱してしまっては元も子もないのだ。
 食事を再開したレイは目に見えて食が進まなくなっていた。それでも完食はしたが、表情は精細さを欠いている。記憶をこれまでよりもずっと多く取り戻せているように見えるが、反面整理が追い付かず困惑しているのだろう。すぐにでも大使館を目指したい所だが、もうしばらくレイをこの街に滞在させても良いのではないか、そんな事を考えた。
「そろそろ出ようか。馬車も空いてきただろう」
「はい」
 どこか上の空といった様子で、レイは顔も上げずぼんやりと答えた。考え事をしながら返事をしているのが良く分かる仕草だ。
 店を出て再び停留所へ向かう。人の列は無くなりはしていなかったが、明らかに順番待ちの列も短くなり、馬車も頻繁にやって来ている。これならさほど待たされる事は無いだろう。俺達はそっと列の最後尾に並んだ。
「口数が少ないようだが。大丈夫か?」
「はい……。ちょっと頭の中がこんがらかっているだけです」
「そうか。まあ、あまり無理はするなよ」
 あちこち歩き回られるほど元気があっても困るが、一人で歩けなくなるほど消沈されるのも困る。どちらかしかない、両極端な人だと思った。そう加減を知らないのは、若さのせいだろう。自分にも似たような憶えはある。こういう時は何でも完璧にやろうとして、程々に済ませる事に納得がいかないのだ。
 しばらく待っていると、程無くして俺達の順番が回って来た。一層口数の少なくなったレイを先に乗せ、俺は軽く周囲を確認してから馬車へ乗り込んだ。ドアの窓はカーテンを引き、正面の覗き窓から御者へ話し掛ける。
「すまないが、この国のセディアランド大使館を知っているか?」
「ええ、まあ。どうかなすったんで?」
「実は旅券を無くしてしまってね。帰ろうにも、出国も入国も出来なくなってしまったんだ」
「それは災難でしたなあ。しかし、大使館は隣の町です。ちょっと距離がねえ」
 どことなく含みを匂わせた渋り方。絶対に無理という訳ではないのだろう。俺は空かさず財布から一掴みの金を差し出した。途端に御者の表情は変わり、愛想は比べ物にならないほど良くなる。
「どのくらい時間はかかる?」
「ハイ、昼までには着きますよ。ほぼ一本道でさ。それでは早速参りましょうか」
 御者は愛想良く振る舞い、馬車を走らせ始めた。この男が金で解決するタイプだったのは幸運である。疑り深かったり、変に勘繰るタイプだとしたら、かなり面倒な事になっていた。金さえ払えば幾らでも愛想を振りまける、普段なら眉をひそめたくなるようなタイプだが、今回ばかりは安堵せずにはいられなかった。
 カーテンの隙間から外の様子を眺める。馬車は町の大通りへ曲り、しばらく走ると間も無く町を抜け、街道へと出た。街道は道幅が広く整備も良く行き届いているのだろう、路端を荷物を抱えて徒歩で行き交う人の姿も珍しくはなかった。この様子なら歩いて移動しても良かったのかも知れないが、夜通しで歩いた後では流石に体力的にきつい。レイは元より、俺も軍隊のような行軍訓練を受けた訳ではないのだから。
「ん?」
 街道に出て間もなく、ふと肩にのし掛かる感触に気付いた。見ると、いつの間にかレイが眠ってしまっていて、こちらにもたれ掛かっていた。セディアランドを出てからあれこれ事件が立て続けに起こった上に、この長距離移動である。大分疲れが溜まっているだろう。
「旦那さんは、こちらにはいつお出でに?」
「ああ、昨日の遅くだ。大分どたばたしたスケジュールでな」
「なるほど、それでお疲れのようなんですね。お連れ様は奥様で?」
 何気ない御者の言葉に、思わず口を結んでしまう。あの雑貨屋でのレイの言葉が脳裏を過ぎった。
「あ、ああ。妻はこの国の出身でな」
「そうでしたか。何とも良い時期に戻られましたな。これから牡蠣の旬を迎えますからね。丸々とした身をたっぷり使った包み焼きなんて、本当にこれ以上ない御馳走でさあ」
「ほう、美味そうだな。帰国前に食べてみるとしよう」
「それがいいです。疲れも吹き飛びますぜ」
 レイ程ではないが、確かに俺も疲れが溜まってきている。随分と長く、気を抜いてベッドで無防備に眠るような事をしていないようにさえ思う。疲れは集中力を欠き、判断力を鈍らせる。休める時は出来るだけ休むようにしないとならないだろう。まだ状況は、何も解決するようには思えないのだから。