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 カーテン越しに差し込む日差しが心地良く、俺はつい窓縁に頬杖を付きながらうとうととしていた。もう少し足を伸ばせれば、熟睡する事が出来たかも知れない。深く眠れば眠るほど、ぬかるみに足を取られるように意識が遠ざかっていく。その境界をうろうろしながら、俺は睡魔に身を任せていた。
 どれぐらいの間、そうしていただろうか。ふと、正面の覗き窓が開く音が聞こえ、意識が浅瀬まで戻ってきた。
「旦那さん、間もなく到着いたしますよ」
「ん……そうか」
 大分眠ったようだったが、体のそこはかとない怠さはあまり消えてはいなかった。一つ大きなあくびをし、目を擦りながらカーテンを開けて外の景色を見る。そこは、馬車に乗った町よりも更に栄えた雰囲気の商店街だった。広い道に何台も馬車が走り、歩道は着飾った婦人が行き交う姿が見られる。セディアランドより少し劣る程度だろうか、それほどの賑わいが感じられる。
「レイ、そろそろ着くぞ」
 俺の肩に頭をもたれて眠っているレイを、そっと静かに揺り動かす。こちらは俺とは違い、大分深く眠っているようだ。
「ん……はい」
「大丈夫か? そろそろだぞ」
「はい……多分」
 ぼんやりとした表情で、レイは曖昧な返事をする。まだ寝ぼけているのだろうか。そう思うのも束の間だった。俺は、レイの顔色がやたら白んでいるのと、額が異様に汗ばんでいる事に気がついた。頬の色がやたら赤く見えるのは、実際紅潮しているのか、血色が無いせいか。ともかく、不調を来しているのは明白だった。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「何か……頭がボーッとして……」
 額に手を当ててみると、はっきりとは分からないが平熱よりは高いように感じた。
「これは熱があるな。いつからだ?」
「よく分かりません……何か急にこうなって……」
 馬車に乗るまでの間は大丈夫そうだったから、本当に今し方始まったのだろう。単純な疲れか、それとも何処かで病気を貰ってしまったか。とにかく、安静に出来る所で休ませなければならない。
「旦那さん、どうかなさいました?」
「どうやら、妻が熱を出したようだ」
「そりゃいけない! 医者の所までお連れしましょう」
「いや、このまま大使館へ行ってくれ。大使館には医者が常駐しているから、その方が手っ取り早い」
「へい、分かりやした」
 御者が馬へ活を入れ、馬車の速度が俄かに上がる。大使館にはすぐに到着するだろうが、しかし困った状況になった。俺は無意識の内に眉間へ皺を寄せる。
「大使館に着けば医者が居る。それまでの辛抱だ」
「はい……」
 レイはぼんやりとした表情で答える。うつろげな視線は、大分熱が上がって来ているせいだろう。原因は分からないが、予断を許さない状況には違いない。
「あの……」
 視点も定まらぬ中、ふとレイが何事かを訴えようとしてきた。
「何だ? あまり無理に喋るな」
「一つ、大事な事を思い出しました」
「大事な事?」
「私は、レイではありません」
「は?」
 突然の言葉に、俺は思わず不注意な声を上げてしまった。
 自分が自分ではないなんて、一体何を言っているのだろうか。それもまた、思い出した記憶の混乱なのか。いや、単に熱に熱に浮かされているせいで、おかしな事を口走っているのだろう。
 あまり真に受ける必要はない。けれど、俺は形だけでも耳を貸す素振りをした。
「あの町……名前はドーガと言います。あそこでずっと暮らしていました。私と、お母さんと、それから……」
 そこまで話し掛け、レイは唐突に意識を失った。眠ったのか気絶したのか、どちらにせよあまり楽観出来る状態ではない。
 しばらく駆け足で走っていた馬車は、程なく掛け声と共にゆっくりと停車する。カーテンと開けると、目の前には年季の入った古い屋敷がそびえ立っていた。昔の名士か富豪かが使っていたものを再利用しているのだろうか、屋敷の外周を返しの付いた物々しい壁が囲んでいる。そして正門の前の詰め所には、武装こそしてはいないが屈強な男の姿が見えた。門の脇にはセディアランドの国旗が掲げられている。どうにか目的地に辿り着けた、それを目にした途端に実感が沸いてきた。
「旦那さん、着きましたぜ」
「ああ、ありがとう。助かったよ」
 御者に外から扉を開けて貰い、俺はレイを抱え上げて馬車から降りる。レイを伴ったまま正門へ近付くと、すぐさま男は詰め所から出て来た。
「セディアランド大使館へどういった御用件で?」
「私はセディアランドの中央監部の人間だ。訳あって、至急保護を求めたい。少し込み入った事情だ」
「何か証明出来るものをお持ちですか?」
 俺は上着の中から委任状を取って男に手渡した。それを見た男は、たちまち顔色を変える。おそらく、俺が委任状のような重要文書を持っている風体には見えなかったのだろう。
「これは……少々お待ち下さい。担当の者をお呼びします」
 そう言って男は屋敷の方へ駆けていった。それから間もなく、先程の男ともう一人、固いスーツ姿の青年が慌ただしく駆け戻ってきた。
「あなたが監部の方ですか? 特命の委任状を持っているとか」
 青年は温和そうな表情に幾分緊張の色を滲ませて、そう俺に訊ねた。
「中央監部監察官のサイファーと申します。失礼ですが、大使殿でしょうか?」
「いえ。申し遅れました、私は領事官補のクレイグと申します。ただいま大使は所用にて不在でして、私が代理の責任者を務めております」
 領事官補にしても随分若いように思う。おそらく、何かしら良い出自の人物なのだろう。見たところ、あまり勘繰り深くない鷹揚な人柄に見え、その分話が早いのはこちらとしても好都合である。
「すみませんが、連れが体調を崩しております。医務官を手配して頂けませんか?」
「失礼、気が回りませんでした。では医務室へ運びましょう。御案内いたします」
 クレイグに連れられる形で、俺達は大使館の敷地内へ足を踏み入れる。外壁を一枚隔てただけの違いしかないラングリスの土地だが、俺はそこでようやく大きな達成感の一つが得られた。
 国際法上、ここはセディアランドの自治権が認められている。少なくともここに居る限り、北ラングリス政府やノルベルト大使の手は届かない。つまり、母国へ帰って来たにも等しい環境なのだ。
 ようやく安堵出来る。そう思った途端、どっと疲れが吹き出してきた。