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 当面の滞在先として、大使館内にある客室の中の一室を貸与される。レイの容態も落ち着き、俺の怪我の治療も終わったので、添え付けのバスルームでシャワーを浴び、用意して貰った服に着替えた。張り詰めていた気も緩み、足の痛みや体の怠さといった取るに足らない事が気になり始める。しばらく休息を取るようにとクレイグに言われた事もあり、その言葉に甘えて仮眠を取ることにした。
 ベッドへ体を横たえ、存分に手足を伸ばす。ドアの施錠や枕元に武器を隠す用意とか、そういった事を考えなくてもいい環境というのは実に居心地が良かった。何も考えずとも安全が保証されている、自国で普段生活している分には当たり前の事で意識などしていなかったが、この数日でそれがどれだけ有り難いものなのか痛感する事が出来た。
 目を閉じると、瞬く間に眠りへ落ちた。仮眠のつもりだったが、意識はすぐには目覚めない深い所へ真っ直ぐ落ちていく。流石に緩み過ぎかとも思ったが、この場所は安全な所なのだから、今の内に休めるだけ休もうと考えを改めてしまった。それぐらい心身が疲れていたのと、ベッドの寝心地が良かったのだ。
 次に意識が戻ったのは、部屋のドアが何度かノックされている事に気が付いての事だった。
「はい!」
 咄嗟に返事をして飛び起きると、部屋の中は真っ暗になっていた。どうやら眠っている間に日が落ちてしまったようである。
 ドアを開けると、そこにはクレイグの姿があった。
「申し訳ありません、もしかしてお休み中でしたか?」
「いえ、今起きた所です。もう十分休ませて頂きました」
「そろそろ夕食の時間ですが、御一緒に如何ですか?」
「ええ、頂きます」
 クレイグに連れられ食堂へと向かう。随分と熟睡していたらしく、頭はすっきりと冴え渡り体も嘘のように軽くなっていた。縫ったばかりの腕の傷も、多少糸の違和感はあったものの、薬が効いているのか痛みは全くない。限り無く本調子に近い所まで回復したと見ていいだろう。
「レイの様子はどうでしょうか?」
「まだ特に連絡は受けていません。恐らく、まだ医務室で眠っていると思います」
「そうですか」
「流石に若い女性ですから、今回の事は相当な負担だったはずですよ。気長に回復を待ちましょう」
 大の大人である自分でもこれほど消耗したのだ、レイの疲労はその比では無かったに違いない。疲れを訴えるような事をしなかったので甘えていたが、実際は随分無理を押していたのかも知れない。
 クレイグに案内された食堂は、十数名ばかりが座れる程度のこじんまりとした部屋だった。これといって調度品がある訳でもなく、隅に新聞棚がある程度の簡素なものである。食堂だけでなく、休憩所を兼務しているような雰囲気だ。
「ここは職員用の食堂です。晩餐会用の部屋も別にあるのですが、普段はこういった質素な部屋で食事をしています。大使も一緒なんですよ」
「私もこういった部屋の方が落ち着きます」
 食堂には他に人の姿は無く、隣接した厨房に気配が一つあるだけである。
「今、この大使館にはどれぐらいの人間が詰めているのですか?」
「そうですね。常駐のスタッフは、私を含めて五人程度です。臨時で数名程が入れ替わりますが、最近はそれもあまりありませんね。こちらが招かれる事の方が多いですし」
「思ったより小規模なのですね」
「ほとんどの大使館がそうですよ。政治的な事情もありますけど、何より外交予算も限りがありますから。ここだけの話、本国は南ラングリスをそんなに重要には思っていないのです。いざという時の緩衝地帯ぐらいの認識で」
「緩衝地帯?」
「北ラングリスの事ですよ。今、国交がありませんから。何かあった時はまず、南ラングリスが拠点になります。近々、そういう動きがあるかも知れませんね。また最近きな臭い動きが出て来ましたし」
「もしかして運輸相の暗殺事件の事ですか?」
「ええ。あれ以来、南ラングリスの情勢はかなり緊張して来ました。その後すぐ、暗殺組織同士の抗争もありましたし」
 黒蜥蜴と白薔薇の事である。イライザに聞いた程度の知識しかないが、互いが互いを不倶戴天の敵と見ているのは知っている。
「あの、レイの事なのですが、当館において影響あるのではないでしょうか? 何分、説明した通りの素性なので」
「うーん、無いとは言い切れませんね。はっきりしていないとは言え、暗殺組織との繋がりが疑われているとなると。まあ、そもそも言い出したのがノルベルト大使ですから、サイファーさんへの件も含めて状況を明確化して貰わないと、こちらも対応はしかねますね。これだけの事が起きたにも関わらず、納得のいく説明も無しに、我々が協力する義理はありませんから。サイファーさんも心境は同じでしょう?」
「ええ、その通りです。こちらは命からがら逃げて来た訳ですからね」
 どうやらクレイグには、そう簡単にはレイの身柄を引き渡す意志は無いようである。大使はまた違った見方をするだろうが、ひとまず当分の間は現状維持で済むだろう。レイも少しずつ記憶を取り戻している雰囲気もある。暫くの間は養生をさせたい所だ。
 そう幾つか状況の確認を含めた話をしていた時だった。突然、食堂内にサンディアが駆け込んで来た。医務室から一息に走って来たのだろうか、肩で息をしながら髪を乱している。只ならぬその様子に、思わず俺達は会話を止めて彼女を見た。
「こちらに居りましたか。すぐに医務室へ来ていただけますか?」
「どうかしました?」
「彼女が目を覚ましました。ですが、ちょっと錯乱気味のようなのです。それで、サイファーさんなら落ち着かせられるのではないかと。ともかく、すぐに来て下さい」