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 レイが?
 今のは果たして俺の聞き間違いだったか。いや、確かにレイは、レイはあんな事になった、と叫んだ。レイがレイの事を話す。一体どういう事情なのか。
「レイがあんな事とは、具体的はどうなったんだ? よく状況が見えてこない」
「二人で逃げようって話してたんです! もうお母さんも居ないし、この国にも居場所はないし、だから航路伝いでセディアランドへ。でも、その先でも既にあの人達に先回りされていて、それで……」
「それで……?」
「レイがお父さんに、いえ、お父さんの偽者に刺されてしまいました」
 その自分の発した言葉に、当時の光景が蘇って来たのだろうか。程なくレイは声を押し殺しながら嗚咽を漏らし始めた。
 激情の方向が内側へ向いた。そう確信した俺は、レイを刺激しないようゆっくりと静かに室内へ足を踏み入れ、屈み込んでいるレイへ近付いていった。レイは顔を覆いながらさめざめと泣いていて、こちらの方には見向きもしなかった。俺が傍らに屈み込んでそっと頭を撫でてみたが、レイはもう物を投げつけたり声を荒げたりする事はしなかった。何も出来なかったが、何とか自然と落ち着いてくれた。とりあえずその結果に安堵する。
「そこから何があったんだ?」
「はい……。それでも何とか逃げ出せたけれど、途中でレイが別れようって言って。私は離れたくなかったのに。あの子、自分の怪我のせいで足手まといになるからって。それでも離れるのは嫌だと言ったら、無理やり薬を飲まされて。それからは……それから……」
「意識を失った。それからあの小屋で目が覚めて、何も覚えていないから近くの聖都までやってきた、と」
「はい……」
 レイの話に出て来る同じ名前の人物、彼女にレイが飲まされたのはおそらく催眠剤の一種だろう。彼女が暗殺者なのだとしたら、そういった一般に流通していない薬物を所持していてもおかしくはない。ただ眠らせるだけのつもりだったのだが、想定よりも効き過ぎてレイの記憶が一時的に混乱してしまった。だからあの小屋で目が覚めた時、自分がどういう経緯でそこに居るのか覚えていないのだ。
 確かにそれで、辻褄は合う。記憶喪失の振りをしていたのなら、密入国であるにも関わらず役所に自ら出頭するなど有り得ない。だとすると、事実関係を公にするのに必要になってくるのは、そのレイに随伴していた彼女の存在を証明する事だ。しかし、今の話の内容から察すると、とても生きているようには思えない。所在不明では意味がない。となれば、より現実的なのは、レイが一体何に巻き込まれてそういう経緯を辿る事になったのかを明らかにする事だろう。
「君は、そのもう一人と南ラングリスを抜けてセディアランドへ渡った。それで間違いはないんだな?」
「はい、そうです……」
「何故、そんな危険な事をする必要があったんだ? それに、一体君達は何に追われていたんだ? 少なくとも、セディアランドの入管は問答無用で殺すような真似はしないはずだ」
「それは……言えません」
「言えない? 思い出せていないのか?」
「その……はい、そうです」
 伏目がちに答えるレイの仕草に、俺は直感的に嘘を付いていると感じた。レイともう一人の彼女は、何か公言出来ないような理由で南ラングリスを出たに違いない。そしてもう一人の彼女の方を殺めたのは、その理由に関わる追手だろう。それも、人一人偽者を作り出している事から、おそらく個人ではなく組織だ。それらは人には言えないような素性なのだろう。
 レイの記憶も戻り得られる物は多かったが、同時に新たな疑問も生まれた。
 随行者は何者なのか。その者がレイなら、俺がこれまでレイと呼んでいた彼女もまた何者なのか。そして、二人が南ラングリスへ居られなくなった理由。そこには、またしてもあの事が真っ先に頭を過ぎった。この国に存在していた暗殺組織、黒蜥蜴である。黒蜥蜴はもう一つの暗殺組織である白薔薇と大規模な抗争を繰り広げ、その末に黒蜥蜴は壊滅させられた。居られなくなった理由とは、在籍していた黒蜥蜴が勢力争いに敗北した事なのだろうか。
 あくまで憶測だが、それでも辻褄は合う。もしそうだとなると、やはりレイは黒蜥蜴の一員、元暗殺者という結論に達してしまう。いや、誰でもそう考えるだろう。事実、北ラングリス政府はそう断定しているから、ロイドの元へもあんなに早く手が回ったのだ。
 レイは本当に暗殺者なのだろうか。
 これまで俺は、一貫してそんな事は有り得ないと信じて疑わなかった。けれど、それはあくまでレイから受けた印象によるものである。今日までに揃った状況証拠は、その真逆を指し示している。公務はあくまで事実に基づいて執行されねばならない。つまり今の状況では、俺はレイを黒蜥蜴の暗殺者として断定しなくてはならないのだ。
 本当にそれで正しいのだろうか。否定しているのは、ただの感情論ではないのか。俺はますます分からなくなった。
「すみません、彼女をお願い出来ますか?」
 部屋の外で待機していたサンディアに話し掛ける。サンディアは無言のまま頷くと、レイを別室の方へ連れて行った。レイはすっかり大人しくなっており、素直にそれに従う。だがその様子は、落ち着いたと言うよりも消沈したと評した方が正確だろう。
 二人が医務室を後にすると、入れ代わりにクレイグが入ってきた。
「さて、我々は医務室を片付けましょうか。何分、当大使館は人手が足りないもので」
「すみません、御迷惑ばかりかけて」
「あ、いえ、嫌味のつもりではなかったんです。すみません。ただありのままの事を言ったまででして」
 ばつの悪そうに頭をかくクレイグに、俺はお茶を濁すように曖昧な笑みを返した。
 そう、ありのままを見れば、レイは暗殺者では有り得ないのだ。幾ら潜入が得意とは言え、性格の根源はそう簡単には変えられない。レイは生まれながらに優しい人物だ。そんな人が、暗殺稼業をしているはずが……。
 医務室の片付けに手足を動かしながらも、ずっとレイの事ばかりを考えていた。レイの記憶は戻りつつあるのに、俺はますますレイの事が分からなくなっているように思った。いや、本当は単に認めたくないだけなのかも知れない。自分が思う像から、レイが離れて欲しくないだけなのだ。
「クレイグさん、ちょっと宜しいですか? 急ぎ、見て頂きたい書類が」
 片付けも終わりが見えてきた頃だった。唐突に医務室に現れた一人の職員が、一通の書類を持ってクレイグに話し掛ける。
「ええ、構いませんよ。何です?」
「あの……ここではちょっと」
 職員は俺の方を気にするように一瞥する。聞かれてはまずい情報なのか。
 ここは大使館であるから、外交的に部外者には知られたくない情報もあるだろう。
「私は後ろを向いていますよ」
「気を使わせてしまってすみません」
 踵を返すと、早速後ろからがさがさと封筒を開けて書類を捲る音が聞こえてきた。何か外交で問題でも起こったのだろうか。俺はそんな事をのんびりと思い浮かべていた。
 しかし、
「え……? これは」
 クレイグの緊張した声が聞こえる。あまりの緊迫した様子に、俺はうっかり踵を戻しそうになった。
「いや、これはサイファーさんにも知って戴かなければなりませんね。すみません、こちらを向いて頂いて結構ですから、ちょっとこれに目を通して頂けませんか」
「はあ。何ですか一体?」
 クレイグの方へ向き直り近付くと、受け渡された書類を書類を広げて見る。それは南ラングリス政府が発行した手配書だった。人相書と罪状、そして現在潜伏していると思われる場所等々。そういった情報が事細かに記述されている。明らかに諜報を専門とする人物が作成した書類だ。
 そして、そこには驚くべき人物が載っていた。
「これは……!」
 俺は息を呑んだ。
 この書類の内容は、レイが運輸相暗殺事件の実行犯として南ラングリス政府から手配されているものだったからだ。