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 夜半の食堂に、俺とクレイグとサンディアの三人は人目を忍ぶように集まった。理由は、レイについてである。実質、今後の処遇を決めて俺に同意させるためのような集まりだ。そして俺は、その展開もやむなしと思っている。
「手配書の件ですが、やはり彼女の事について間違い無いようです。南ラングリスの外務官に確認をして来ました」
「……そうですか。しかし私は未だに信じられません。あんな虫も殺せないような子が、暗殺者だったなんて」
 クレイグは同調も反論もしなかった。俺の混乱した胸中を汲み取ってくれているのだろう。
「彼女の様子はどうですか?」
「既に客室の方で休ませています。終始落ち着いていましたよ。もう薬は必要ないと思います」
「体調の方は大丈夫なのですか?」
「ええ、熱もすっかり下がりましたし。恐らく心理的なものだったのだと思います。一時的に強いストレスがかかると、ショックでああいった症状が出ることは珍しくありませんから」
「知恵熱みたいなものですか」
 ここへ来るまでの経緯もそうだが、突然と記憶が戻り始めた事も関係あるのかも知れない。それらが合わされば、確かにかなりの心理的負荷になるだろう。
「おそらく彼女は、ほぼ記憶を取り戻しているのかも知れません。きっとそれが、強いストレスの原因だったのかも」
「元々は記憶喪失だったそうですね。それが回復し、彼女がこの国の出身を主張するとなると、南ラングリスに引き渡さないといけなくなるかも知れませんね。彼女の身柄の存在を南ラングリス政府に知られたら、まず間違い無く引き渡し要請が来るでしょうし」
「それはしばらく待って頂く訳にはいかないでしょうか? まだ、ノルベルト大使との件が残っています。人道上の問題があるなら引き渡しを拒むのもやむなし、そういう前提があるはずです」
「確かにそうですが……。その根拠が明示出来ないと難しいですよ。理由も無しに拒否するのは心象も良くありませんから」
「その時は私が表に立ちますよ。そもそもこれはノルベルト大使の方から言い出した件ですし、その結果こういった目に遭ったのです。事実関係は明確にして貰わないと。抗議の正当性はこちらにあるはずです」
「確かにそうですが、相手は一国の大使です。正論が通用するとか、あまり期待は出来ませんよ」
 クレイグの論調は変わってきているように感じる。自国の人間ならともかく、他国の指名手配犯を積極的に保護する理由などあるはずも無いからだろう。
 何となくクレイグからは、イライザと同じ波長を感じた。彼女も、国家間に要らぬ波風を立て、軋轢を作りたくないとしていた。何が国にとって得なのか、何が損なのか、外交官の仕事はそれだけしか考えないものなのだろう。法律と照らし合わせてどうなのか、社会的な倫理観に基づいてどうなのか、そういった基準でしか考えない監察官と価値観が相容れるはずがない。
「万が一要請が来たとして、当面は体調を理由に誤魔化してさしあげましょう。ですから、その間にサイファーさんがどうにかすれば宜しいのでは」
「そうするしかありませんね。まあ私も、直接訊ねられない限りはすっとぼけますよ。別段、南ラングリスの機嫌を窺う義理もありませんし」
「宜しいのですか? 秘匿を強要するつもりは無いのですが」
「それはそれ、これはこれです。受け渡しを断固拒否する理由はありませんが、積極的に協力する理由も無いだけです。もっとも、理由が出来たらその限りではありませんけれど」
 ノルベルト大使の要請を断る正当な理由。やはり、北ラングリスとの繋がりを暴く事ぐらいしか無いだろう。国家的な犯罪行為だと煽り立てて喧伝すれば、迂闊には手を出せなくなる。可能性はそれしかない。
「時間はどれぐらい作れそうでしょうか?」
「状況にも寄ります。実際、まだ記憶が混乱しているような点も見受けられますから、当面は安静が必要なのは事実ですし」
「混乱?」
「ええ。自分の名前はレイではなく、ルイだと言っていましたよ」
 似たような発音の名前である。しかし、彼女は自分で自らの名前をレイと語った。今更聞き違いだったという事もないだろう。
 この国の発音だとそう聞こえるのか、子供の頃のあだ名だったのか。ともかく、それは後ほど本人に確かめる他ない。
「ところで、あの手配書が発行されたのは何時の事ですか?」
「先月のようですね」
 暗殺事件が起こったのは去年の話だから、随分と遅い手配である。いや、それまで犯人の特定に時間が掛かったという事だろうか。
 偶然か、手配はレイが南ラングリスを出たであろう時期とも重なる。つまり、レイが追われていたのは白薔薇だけでなく南ラングリス政府もだったのかも知れない。
 もし、南ラングリス政府が黒幕なのだとしたら、事態は自分の手には負えなくなるかも知れない。国家組織に対して、一個人の力など無いにも等しい。その事は重々身に知らされているのだから。
「一つお訊きしたいのですが」
「何でしょうか?」
「サイファーさんはこの件に関して、どういった着地点を求めているのですか? 仮にこのまま彼女を南ラングリス政府に引き渡したら、それで本件は済むではありませんか。ここが彼女の出身国なのは確かでしょうし、密入国に対する強制送還も完了となりますよ」
「そうでしょうけど……。何かこう、納得がいかないのです。このまま引き渡した所で、自分の知らない何かがまんまと成功してしまったような気がしてなりません。引き渡すならば、少なくとも彼女が暗殺事件の実行犯だったという確証だけは欲しい。そうでないと、到底納得が出来ないんです」
「外交官として言わせて頂ければ、納得出来ない事例なんてしょっちゅうですよ。コーヒー一杯にすら様々な策謀が渦巻いているんです。その中から致命的な物を探し出してこっそりより分ける、これが我々に出来る精一杯です。それに、失礼ですけど、あなたは彼女に肩入れし過ぎているように見受けられますよ。それは本当に危ない。大局的な判断を誤る危険があります」
「……まあ、否定は出来ませんね。御忠告、感謝します」
 確かに俺は、レイに対して個人的な感情を強めていると思う。俺の仕事はレイの強制送還のはずだが、今は引き渡し後の身の安全まで考えてしまっている。仕事にその手の執着心を持つのは禁忌である。俺は少しばかり頭を冷やした方が良いのかも知れない。
「さて、もう今夜はこの辺にしましょうか。明日には大使がお戻りになられるそうですから、一度サイファーさんも話し合ってみて下さい。それで、最終的に彼女の処遇をどうするか、ノルベルト大使の件はどのように抗議するのか、方針を決定しましょう」
「分かりました」