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「馬鹿げてる!」
 響き渡ったのは、予想以上に感情的になったノルベルト大使の声だった。椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がると、フェルナン大使を指差しながら声を荒げ続ける。
「そのような狂言が通じるものか! ただの自傷行為だと、調べればすぐに分かる事だ!」
「ほう。それは、誰が、何時、どのようにして行うのかね? セディアランドの警察か、はたまた南ラングリスの外交官か。指名手配犯と、善良な私。果たして、どちらに有利な状況かねえ」
 フェルナン大使はハンカチで傷口を縛りながら、涼しい顔でノルベルト大使の罵声を受け流す。そして、取り巻く黒服の男達には僅かながら動揺が見られた。これほどの事態は予測していなかったのか、単に経験が浅いのか。どちらにせよ、初見時のどす黒い異様な雰囲気は、すっかり感じられなくなった。
「そもそも君は、私を説得する手段を間違っとるよ。見知らぬ所に突然拉致してきたり、彼のような善良な人間を目の前で理不尽に痛めつけたり、それで私が怒りを感じないとでも思ったのかね? 私の言い分は大体彼が代弁してくれたが、君は少々人命の価値を軽く見過ぎている。たとえ、ここで痛めつけられたのが死刑執行待ちの重罪人だったとしても、我が国の人間であれば、私の回答は一つしかないよ」
 飄々とした口調で持論を展開するフェルナン大使、それに対してノルベルト大使は焦りや困惑の入り混じった、非常に感情的な表情で歯噛みしていた。自らが立案した完璧な計画を崩された、そんな心境だろうか。
「良く言うものだ。嘘で塗り固めた所で、私を非難するのはお門違いというものだ」
「おや、まだ状況が理解出来ていないようだね。これから公になり着目されるのは、私が不当に監禁された事、そこで私と彼が怪我をした事、この客観的な事実だけだよ。何かそうなるだけの不可抗力はあったかな? まあ、証明するにしても難しいだろうね。なんせここには、君にとって味方となる第三者はいないのだから」
「いないのは、そちらとて同じではないか」
「それが違うんだな。忘れたのかい? ほら、そこの彼は監察官、身内の不正を裁く人間だからね。彼は元々、私の味方でも何でもない、中立な人間だよ。知っているかい? 彼、自分の上司を告発しようとして干されたくらいの、筋金入りなんだよ。そんな真面目で裁判官の心象も良さそうな彼に、君は随分と酷い事をしたね。しかも、何とかという娘さんも殺そうと脅したじゃないか。いやあこれはもう、君の要求を通すなんて無理なんじゃないかな。状況証拠だけでも、完全に君が悪役だ」
 今、この場を官憲が見れば、一体どちらが被害者で加害者なのかは、一目瞭然だろう。経緯を聴取した所で、ただの確認にしかならない。
 気になるのは、フェルナン大使の怪我だ。あれは怪我をさせられたのではなく、あくまで自分で傷付けたもの。ノルベルト大使の責任ではない。けれど、この状況からはそうとしか見えないだろうし、ノルベルト大使が否定しても心象は悪くなるばかりだ。一国の大使に傷を付ける事は、宣戦布告と見なされても仕方のない暴挙である。そのため、ノルベルト大使のセディアランド亡命は限り無く不可能になった。ルイの件についても、もはやそれどころではなくなるだろう。
「サイファー君、君は実に頑固だねえ。噂で聞いた通りだよ。で、後は分かるね? 君がうまくやれば、君が連れているという娘も黒蜥蜴に命を狙われなくて済むよ。全部丸く収まって、みんなが幸せになれる」
 意味深な視線と口調。そこから何かを察しろと言われたような気がして、俺は痛みで呆けている頭に活を入れ必死に考えを巡らす。
 ああ、そうか。
 これは俺に、今後余計な事は黙秘しろ、そう遠回しに言っているのか。
「分かるよね? うん、別にそれは正当な権利だからね」
「……そうですね」
 黙秘権は、セディアランド国民全てに認められた権利である。自分の不利益になる証言は強制されない。けれど俺は、まるで不正を強要されているような、何とも複雑な気分だった。多分俺は、人から要求されると無条件で反発したくなる気質なのだろう。
「……やれやれ、参ったな。どうやら潮時らしい」
 おもむろにノルベルト大使は、溜め息混じりにそう呟くと、右手をさっと頭上に掲げた。同時に、フェルナン大使と俺に取り付いていた男達はその場を離れ、あっという間に消え去ってしまった。
「おや、降参かね。じゃあ、出るとこ出て頂こうか。君、南ラングリス政府から手配されてるそうじゃないか。怖いねえ」
「表社会での肩書きと大使の特権、どちらも捨てるには惜しいのだが、もはや持ち続けるのは不可能なようだ。当分、地下に潜ってほとぼり冷ますとしよう」
 ノルベルト大使は苦笑いを浮かべながら襟を正すと、やけに落ち着いた足取りでこちらに歩み寄って来た。
「無気力な閑職の人間だと侮っていたようだ。まさか、ここまで番狂わせを招いてくれるとはね」
「自分は職務を全うしただけに過ぎません」
「本当に、心底、腹の立つ男だ。何でも杓子定規にやっていれば、物事が円満に解決すると信じているのかね。まあ、そう信ずるのも若い内だけだ。いずれ、嫌でも酸いも甘いも知る事になるさ」
 小さく舌打ちし、そのまま俺の席の後ろを通り過ぎていくノルベルト大使。俺は体をよじって席から立ち上がり、その行き先を塞いだ。
「待って頂きたい。あなたの身柄は、南ラングリス政府へ引き渡させて頂く。これまでの数々の行為は、いずれも看過できるものではない」
「ほう。それで? どうしようと言うのかね?」
「南ラングリス政府の関係者が来るまで、ここに留まって頂く。従わないならば、力ずくでも」
 すると、ノルベルト大使は一旦驚きで目を大きく見開き、そして視線をフェルナン大使へ向け苦笑いした。
「これだ。その上、自分の力を過信している。本当に、若者というのは身の丈を測る事が出来ない」
「なに、そんなものは時間が解決するものさ」
「そんなものかね。愚か者は、歳を取っても愚か者と相場が決まっているものだが」
 そして、ノルベルト大使は俺へ視線を合わせた。思い返せば、この距離で真っ向から目が合ったのは初めての事である。まだセディアランドへ居た時は、南ラングリスの大使閣下で、本来なら俺のような人間は歯牙にもかけない存在だったのだから。
「今までありがとう。おかげで良い経験が出来た。取りあえず、これはただの八つ当たりだ」
 そう言って、ノルベルト大使の右肩が僅かに動いたように見えた。直後、頭の中で鈍い音がして、俺は歯を噛み締める暇も無く意識を失ってしまった。