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 全ての手続きが終わる頃には、既に日が暮れかかっていた。明日には市民課で証明書が発行されるので、それを受け取ったら完了となる。しかし、まだセディアランドでやる事は残っている。今度は、南ラングリスへの転居作業だ。
 庁舎を出ると、街はすっかり帰宅で行き交う人達で賑わい始めていた。そのほとんどが黙々と歩いているのだけれど、これだけの数だと打楽器が合唱しているかのように聞こえてくる。この雑踏の音は、南ラングリスではなかなか聞くことがなかったものだ。南ラングリスに居た期間はそれほど長くはないはずだったのだけれど、この騒々しさが懐かしく思える程には十分だったらしい。
「今日は疲れた事だし、夕食を食べてから帰ろう。俺の自宅は、ここからだと少し歩く」
「分かりました」
 庁舎を出た所で段取りを話し、通りへと出る。そう答えたルイは歩き出した俺の腕に、やや遠慮がちにくっ付いて来た。こういう事に憧れがあったらしく、表情は何時になく随分と嬉しそうに見えた。俺はそんなルイの扱い方が未だに良く分からず、どことなくぎこちなさがあった。
 飲食街を少し歩き、まだ人のまばらな店へ入る。静かで落ち着いた雰囲気のその店は、ゆっくりと食事しながら談笑するのに向いている印象だった。
 夕食を食べながら、他愛もない雑談を交わす。思い返せば、ルイとこうして店に入りのんびりと過ごしたのは初めてだと思う。今までは、決まって時間が押していたり、周囲に警戒していたりと、気の休まる状況ではなかったのだ。これまでとは違い、プライベートを一緒にしている感覚は、不慣れなせいかいささか奇妙な感じがした。
「セディアランドには、ひとまず今週一杯は居る事になる。だから、その間に荷造りをする事になるだろうな」
「分かりました。南ラングリスへ行ったら、大使館に住むのでしょうか?」
「少しだけな。向こうに行ったらすぐに部屋を探す。けれど、またすぐに引っ越すかも知れない。近々、大使の赴任先が変わるそうだ。だから、家具を選んだりなどは当分出来ない」
「荷物が増えると、もっと大変になりますからね」
 南ラングリスで部屋を見つけても、あくまで数ヶ月程度の仮宿になるだろう。だから新居を整えるという考え方は、次の赴任先に持ち越した方が良い。
 時間をかけた食事が済むと、外はすっかり夜の帳が降りていた。旅の疲れもあり、俺達は真っ直ぐ家路へ着く事にする。
 セディアランドの、特にここ聖都の夜はいつまでも明るい。あちらこちらで照明が一晩中焚かれ、宵っ張りで遊び過ごす者も少なくない。聖都は、かつてこの地に水を湧かす奇跡を起こした信徒の伝説にちなんだ街なのだが、そういった情緒さはすっかり無くなってしまったと言えるだろう。
 大通りから路地へと入っていくと、行き交う人もどんどん少なくなっていく。その反面、街灯の明かりはここにも差し込んで来ているため、こうして夜に出歩くのも不便が無い。ルイは相変わらず俺の腕にべったりとくっ付いていて、俺は歩幅をルイに合わせながら歩いていた。いつもより帰宅に時間がかかるだろう、そんな事を考えた。
 しばらくして、行き交う人も自分達以外に見掛けなくなった時だった。おもむろにルイが、歩きながら訊ねて来た。
「あの、サイファーさん。やはりレイはもう生きてはいないのでしょうか?」
「どうしたんだ、急に?」
「その、セディアランドを出る前に、レイが居た所とか、ちゃんと見ておきたいと思って。あの子があの後、何処に行ったのかは分からないですけど……」
 レイの遺体が見つかった場所は、イライザの書面に書かれていた。おそらく一日がかりの移動くらいになるだろうが、滞在期間に余裕が無い訳でもなく、その気になれば十分可能な距離である。
「彼女の事は、あれから幾つか情報は得た。南ラングリス政府から、回答があったそうだ。……やはり、知りたいか?」
「はい」
「……残念だが、君の思っている通りだ。南ラングリス政府が黒蜥蜴の装飾剣を持った遺体を確認している。ノルベルト大使からも同じ内容を聞いていたから、間違いはないだろう。その後の事は良く分からない。おそらく、引き渡しを求めても、応じてもらうのは難しいだろう」
「そうですか……そうですよね。あの子、大変な事をしてしまったのですから」
 レイは、南ラングリスの運輸相暗殺事件の実行犯である。南ラングリス政府からの回答には、幾つか事実と異なる部分があったものの、これだけは疑いようのない事実である。重大な政治犯と言えるし、その遺体に通常の埋葬が許可される事は、国体を鑑みればまず有り得ないだろう。非情だが、暗殺が事実である以上は、どうにもならない事である。
「私の父の事は、何か聞いていませんか?」
「ノルベルト大使が話していたが……これは聞かない方がいい。君の希望には沿えない」
「いえ、いいんです。もうずっと会えてなかったから、多分そうだと思っていましたから……」
 ルイの父親は、北ラングリス政府の高官だった。運輸相の暗殺について、黒蜥蜴と交渉したのも彼である。事件が黒蜥蜴と白薔薇の大抗争に発展してしまった以上、口封じのため消されるのは致し方ない事ではある。間接的にとは言え、この状況はルイの家族が起こしたようなものと解釈も出来る。事実はどうあれ、ルイは必ず気に病むに違いないだろう。だから詳細は打ち明けるべきではない。
「すまないな。俺は大した力にはなってやれない」
「いえ、サイファーさんのせいじゃありませんよ。これは、仕方のない事ですから。ただ、ちゃんとはっきりさせておきたかったから、訊いてみただけです。変な事を言ってしまってすみません」
 謝るルイの手が、俺の腕を掴む力を強める。言葉とは裏腹に、本当は辛い気持ちを押し殺しているのだ。家族の最後にも立ち会えず、その後も国の都合で葬儀も出来ず、悲しみのやり場が見つからない。それでも取り乱さないのは、ルイの持つ強さの一つであると俺は思った。
「明日、準備を整えて、明後日にでもレイの見つかった所に行ってみよう。この機会を逃したら、あと当分はセディアランドには戻って来れないから」
「はい、お願いします。私、セディアランドの人間になれて良かったです。こうしてレイの事を迎えに行けるんですから。それに、もしかするとレイも一緒に、南ラングリスやその先にもくっついてくるかも知れませんし」
「一緒に?」
「あの子、凄く甘えん坊でしたから。いつも私の側に居る子だったんです。きっと、私を見つけたら付いて来ますよ」
「そうか。なら、彼女も寂しい思いをしなくて済むだろうな」
「はい、そうです」
 セディアランドでは、魂を認める宗派は極僅かしかない。だから俺には、ルイの言うレイの存在があまりよく理解は出来なかった。ルイにとってレイは、亡くなっているけれど、姿形を変えて何らかの形で存在しているのだろう。それが死者に対する追悼か慰みかになれば良いと思う。俺に出来るのは、せいぜいこうして取り留めない話をする程度の事なのだから。
「あの、もう一つだけ良いですか?」
「ああ。何だ?」
「結婚式は盛大な方が良いでしょうか?」
 脈絡もないその質問に、思わず上擦った声を出してしまいそうになる。視線を感じてルイの方を見ると、照れながらも意味深にじっと見上げてくる、あの表情をしていた。いつの間に気持ちを切り替えたのか、そう戸惑ってしまった。
「……いや、俺は騒がしいのは苦手だ。厳かに質素な方がいい」
「私もそうなんですけれど……。南ラングリスを出る前に、フェルナン大使が張り切っておられましたから」
「なるほど……。俺達には口を挟む余地は無いという事か」
「レイが私のために残してくれたお金ですけど……。あのお金、そこで使いましょうか?」
「大使の都合で使う事も無いんじゃないか」
「それじゃあ、どうしましょうか? そうだ、サイファーさんが貰って下さい。これからの生活費の足しに」
「足しにと言っても、貰うには少し気の引ける額だな。それに退職金も出る事だから、生活に不自由はさせないさ。だったら、どこか慈善団体へ寄付するか。どうせ誰も存在を知らない金だ、その方が有用だ」
「そうですね。私達みたいな子供が減るなら、きっとレイも喜んでくれるはずです」
 そう言ってルイは満面の笑みを浮かべ、より強く俺の腕に密着してくる。
 いつの頃からだろうか、初めの頃にあったような恐る恐る近づく仕草は、今はもうなくなっている。俺達が、より一層親しい間柄になったという事だろう。
 しかし、そこから幾つかあるべき段階を飛び越えて、何やら訳の分からぬ内に結婚する事になってしまった。ルイを自国へ帰して平穏な暮らしをさせるという、当初の予定からは大分離れた結末にはなったけれど、それなりに納得のいく形に収まったと俺は思う。期せずして再就職も決まり、家庭も得る事になった。これは順風満帆な生活と言える。
 上司の不正の告発に失敗し、閑職へ飛ばされたけれど、性根まで腐らせなくて良かったと思う。そうでなければ、今のような充実さは決して得られなかったはずだから。
「明日は早いのですか?」
「いや、どうせ役所は午前中は混んでいる。午後にゆっくり出掛ける事にしよう」
「はい、分かりました」
 元気良く答えるルイの嬉しそうな表情に、俺も口元を綻ばせつつ、残り僅かの家路を急いだ。