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 何時の頃からだろうか、その子は毎日この橋の下へやって来て、日長座り込んでいた。この橋は町の外れにあり、通るのは他の町と行き交うトラックぐらいで人は滅多に通る事はなく、ましてや尋常小学校も終えていないような子供など他に居やしない。だから私も自然とその子が目に付き、そして気を留めるようになった。その子は時折顔を俯けながらしくしくと泣いていた。何か泣きたい事情があって、一人で泣くためにこんな人気のない所へやって来るのだろう。だけど、それ以上の詮索は私はしない。その子が泣いていようとも、長い日常の中で眺めるものが一つ増えた、ただそれだけの事にしか過ぎない。だから今朝も何か目的があるはずもなく、いつものようにいつもの場所へぶらりと姿を現すだけだった。
 今朝は夜明け前から深い霧が立ち込めていて、トラックも普段より橋を通る数が少なかった。この視界で山道を走るのは危険であるため、自粛せざるを得ないのだろう。汚い空気を撒き散らすトラックはあまり好きではないから、こんな朝はとても清々しいし、トラックが走らない分には一向に構わない。むしろしばらくの間、朝だけでも深い霧が立ち込めてくれないものだろうか。
 私はいつものように、川のほとりの石の上に腰掛けて川を眺めた。名前もないこの川に、私は特に思い入れがある訳ではない。水の流れを比べるのも、白い腹を光らす魚を追うのも、特別意味があってしている訳ではない。川の側に居ること、ただそれだけが私にとって重要な事だった。何故重要なのかは良く分からない。ふと物心がついた頃にはもう私はそれをしていて、私はそういうものだと認識しているだけである。
 夜も明け日が登り始めると、少しずつ霧が晴れていった。名前の分からない小鳥達が、金属を軽く擦ったような鳴き声で仲間と合図し合い、まだ薄曇った空を駆ける。その隙間から太陽が差し込んで来ても暖かくはならない。むしろ早朝の太陽は冷たいようにすら思う。その冷たい光を眺め、私はそっと涙をこぼし始める。そして、ああ久しぶりだと、頬を濡らす生暖かさに感慨にふけった。
 初めは微かな粒だったが少しずつ勢いと大きさを増していき、やがて次から次へと止め処なく溢れ出していく。涙の勢いがそこまで来る頃になると、私は自然と漏れる嗚咽を圧し殺すようになった。誰もいない橋の下、トラックにも聞こえないはずなのだけれど、嗚咽を撒き散らさない事が何となく美徳のような気がするからだ。
 何故、自分は泣いているのか、泣くのか、かくも悲しげな声を上げるのか。それは自分でも良く分からなかった。ただ、自分はこの川のほとりに現れて時折涙を流す者なのだと、初めからそういうものだという認識だけがあった。その認識に疑問も無く、私は自分が赴くままに振る舞うだけである。
 涙を溢れるままに任せている内、ふと頭上の橋から人の足音が聞こえて来た。その気配は橋を渡り切ると、そのまま町の外へ向かわず真っ直ぐ下へと降りて来る。気配の主は、時折此処へ来るようになったあの子だろうと推し測る。こんな町外れにやって来る人など、その子ぐらいしかいない。
 俯き加減で歩くその子は、此処なら誰もいないと思い込んでいるのだろう、私の存在に気付かずに降りて来た。そして徐に顔を上げた直後、視界に私の姿が入るや否や、大きく目を見開いてびくりと全身を跳ね上げて驚いた。こんな時間、こんな所には誰も居ないと踏んでいたに違いないだろう。
 それも束の間、その子は自分を落ち着けながら恐る恐る私の方へ近づき、遠慮がちに訊ねて来た。
「あの、泣いてるの……?」
 戸惑いながら私を見るその子に、私は初めて自分が姿を見せた事に気がついた。そう、今まではその子を眺めるだけで、自分から姿を見せるような事をしていなかったのだ。
「君こそ、また泣きに来たの?」
 そう訊ね返すと、よほど痛い所を突かれたのだろう、その子はぎくりと表情を強張らせ、足がはたと止まった。心を読める訳ではないけれど、こうも分かりやすい反応を見せてくれると、思わず見透かしたような言葉を使いたくなってしまう。
「いいわ、辛い事があるなら泣けばいいじゃない。いつものように」
「い、いつもって……どうして知ってるの? もしかして、ずっと覗いてた?」
「まさか。そんな気がしただけ。当たってるの?」
「当たってないよ! よく此処に来ているのは本当だけど」
 むきになって否定する必死な表情を見ていて、私は思わず口元を綻ばせてしまった。そして、いつの間にか伝っていた涙も止まってしまっていた。