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 翌日もコウタは、この碧橋の下へ昼前からやって来た。私が丁度いい遊び相手になるのだろう。私自身は遊びというものを良くは分からなかったけれど、コウタが来ることに関しては決して悪いようには思わなかった。
「おはよう、今日も来てたんだね」
「そうね。私は他に居る場所もないから」
 土手から草むらを滑るように駆け下りてくるコウタは、昨日別れた時と同じ笑顔を浮かべていた。今のコウタの住処には不快にさせる親類が居るそうだから、それらのいない此処は居心地がいいのだろう。
「あれ? また泣いてるの?」
「いつもの事よ。気にしないで」
 そう、とコウタは横目でこちらを窺いつつ納得した素振りを見せる。私が泣く理由を、自分のそれと重ねてしまっているのだろう。そんな同情的な心境のように思える。コウタがどう解釈しようと私は構わないのだが、理由を深く訊ねられるのはいささか不都合がある。自分自身でももやがかかっている事で、そういうものだと以上に話せる事は無いし、きっとコウタも訝しがるに違いないからだ。
「ねえ、碧は時々自然に涙が出るんだよね。もしかするとそれ、アレルギー症状かもしれないよ」
「アレルギー?」
「普通なら何でもないものに、体が過剰に反応しちゃうことだよ。結構人それぞれあるみたい。うちのお手伝いさんは、蕎麦を食べると呼吸が苦しくなるそうだし」
「そう。なら私は何のアレルギーなのかしら?」
「それはお医者に掛からないと分からないよ。まあ、こういう川縁に生えてる雑草なんかでもなる人はいるからね。酷い人なら、太陽を見ただけで涙が止まらなくなる場合もあるそうだし」
 慰めなのかは判断に困るが、コウタの話の振りは強引に思えたけれど、話題を逸らせるには十分だと思った。コウタの話している事はあまり良くは分からないし、深く理解するつもりもないが、話を合わせられる程度には認識しておきたいから、ひとまず自分でも分かる範囲の事に置き換えながら頭の片隅に置いておく事にした。
 私は相変わらず川縁の石の上へ腰を落ち着け、コウタは川に向かってあの水切りという遊びを始める。お互いがどちらかと同じ事をする必要はないのだけれど、この構図は何となく距離感を感じさせるような気がした。だからどうしようといった気持ちは無いけれど、何となくコウタに対して良くないのではないか、と漠然とした何かが胸に引っ掛かった。
「ねえ、涙はどれくらいで止まるの?」
「さあ。いつもまちまち」
「本当に大丈夫? 声も涙声だけど」
「いつもの事よ。止まれば自然に戻るから」
「別に、何か辛い事情でもあるなら話してくれてもいいのに」
「そうね」
 自分こそ辛い事情があって此処へ足を運んでいるくせに。思わずそんな言葉を返しそうになり、すんでの所で飲み込む。コウタは自分が泣いている事を私には知られたくないだろうからだ。自分がそうだから、似た境遇の仲間が欲しいのか、それともその人より優位な立場になりたいのか。ともかく、自分が此処へこっそり涙を流しに来ていた事を塗り潰したく思っている心境は分かった。
「あのさ、今ちょっと気付いたんだけど」
「なに?」
 ふと石を投げる手を止めたコウタが無造作にこちらへ歩み寄って来ると、いきなり目の前でしゃがみ込んで私の顔をじっと見た。
「碧の目ってさ、赤いよね」
「そう? いつも泣いているからかしら」
「そんなに泣くの? 時々じゃなかったっけ」
「目がこうなるくらいの時々よ」
「ふうん。でも、なんか外国の人みたいだね」
 外国にはそんな目の赤い人がいるのだろうか。この町の外の事さえ知らないし興味すら無い私には、今ひとつ想像のつかない事だ。
「コウタだって、泣いたら目は赤くなるでしょう?」
「そうだね。でも、僕は泣かないから」
「どうして? 我慢するの?」
「そうだよ。僕のお父さん、男は泣いてはいけないって怒る人だから。そういうの、何か格好良いって思うんだ」
「でも、余計辛くなるだけよ、そんなの」
「そうかもね。でも、僕は泣かないって決めた事だから」
 悲しい時は泣くのが当たり前、それが人間の常識だという事ぐらいは疎い私でも知っている。それを我慢する美徳というのは、私には斬新に思えた。私が美徳とするのは、涙が出る時は構わず流し声を漏らす、そういう様式美だ。これを我慢するなんて、私には想像し難いものである。多分、人が泣くのは気持ちの問題で、私が泣くのはただの役割であって、そういう行為の違いがあるから美意識の共感が出来ないのだろう。
「じゃあ、コウタのお母さんは何て言ってるの?」
「僕のお母さんは、僕が小さい頃に死んだよ。新しいお母さんはいるけど、あまり好きじゃないから話をした事なんてほとんど無いし」
「そうなの。それでも泣かないのね」
「そうだね。だから、もしお父さんが死んでしまっても、僕は泣かないよ」
 断言するコウタの目には強い気持ちがこもっているように私には見えた。だけど、私は知っているのだ。元々コウタは、この橋の下へ一人でこっそり現れて、そこでこっそりと泣いていた事を。だから、今の宣言もきっとただの強がりになって、その時が来ても履行される事は無いだろう。
 きっとその時が来たら、自分は無力だと打ち拉がれるだろう。それくらい、人間の涙というものは重いものなのだ。