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「昨日さ、お父さんの調子がちょっと良くなってたんだ」
 その日、コウタは唐突にそんな事を話し始めた。コウタの父親は病床の身で、余命幾許もない。コウタはその事を良く気にかけていた。
「それは良かったわね」
「このまま病気も治ってくれればいいんだけどな。そうはいかないかな」
「うまくいけばいいわね」
「そうなんだけどね。そうそう、話は変わるけどさ、ちょっと昨日考えた事があるんだ」
「考えた事?」
「碧が泣かなくて済むような方法」
 またしても唐突な話である。私が泣かないようにするなんて、一体どうしてしなければならないのか。私は表情にこそ出しはしなかったけれど、コウタの突拍子のなさにはかなり面食らった。
「何のためにするの?」
「何のためって、泣かないで済む方がいいんじゃないか。人間誰しも、泣かないのが幸せに決まってるよ」
 泣かない幸せ。私はこれまで、泣く事を漠然とした自分の役割としか思っていなかったから、そんな事は考えた試しが無かった。そして、このコウタの提案は私を困窮させる。私とコウタとでは、泣く理由というものが全く異なるからだ。
「あのね、私は悲しくて泣いてる訳じゃないの」
「アレルギーの事でしょ。でもさ、ちょっとだけ調べたんだよ。そういう専門書で。食べ物じゃないアレルギーの症状って、ほとんどくしゃみや痒みなんだよ。だから、碧のそれは違うと思うんだ」
「違うなら何なの?」
「それは、その……」
 と、ここまで冴え渡っていた弁説が急に滞ってしまう。
「どうしたの?」
「いや、その。怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「話す前じゃ、怒るも何も分からないわ」
「じゃあ、あのね……。多分、僕の予想なんだけどさ、きっと碧は何か辛い事があるんだよ。それを普段は意識しないようにしているんだけど、体はそうもいかなくて、無意識に涙が出るんだ」
「悲しいと意識してないのに、涙が出るの?」
「うん。そういう症例もあるって、お医者さんにも聞いたんだ。だから、もしかしたら碧もそうなんじゃないかなって」
 私が泣く理由が、意識もしない悲しい出来事のせいだと思っているなんて。コウタとは自分と噛み合わない部分があったが、それが一気に顕在化したように思った。
 コウタは泣くという事を自分の基準でしか考えていないから、そんな結論に達したのだろう。けれど、きちんと反論しようかと考えたのも束の間、コウタの真剣な表情を見て、その気はどこかへ消えてしまった。何となく否定してしまうのは可哀想だという心境があったからだと思う。
「それでね、僕もあまり深く詮索はしないよ。そういう無神経な事はしたくないから。だから代わりに、その分楽しませられたらなあと思うんだ。辛い事を楽しい事で相殺、それ以上にする」
「そうすることで、私が泣かなくなるの?」
「多分。いや、絶対そうさせる」
 根拠はともかく、コウタの表情からは非常に強い自信がある事が窺える。
 泣くことが唯一の役割の私を泣き止ませるなんて、そんな方法が果たしてあるのだろうか。そんな疑問を抱くものの、思い返してみると、コウタと話すようになってから私が泣く回数は減ったような気がする。もしかすると、コウタが居ればいずれ私は泣かなくなるのではないだろか。だから、あながちコウタの言っている事も虚言という訳ではないのかも知れない。
 だけど、それでどうなるのか。
 役割を無くした私に意味はあるのだろうか。涙を流すことが私のたった一つの役割であって、それを辞めてしまうのは私の居る意味が無くなってしまう。そもそも何の意味があるのか分からない役割だけど、そう簡単には手離してはいけないと思うのだ。
「今日は泣いたかな?」
「ううん、まだ」
「そう。でも、目は赤いんだね」
「生まれつきこうだから。私は泣きながら生まれたのかも知れない」
「そんなの、みんな同じだよ。ただ覚えてないだけで」
 人間も泣きながら生まれて来るのか。その仕組みを良く知らない私には、とても想像出来ない光景である。
「どうして泣きながら生まれるの?」
「さあ、どうしてだろう。僕も覚えてないから」
「生まれて来た事が悲しいのかしら」
「まさか、そんな事は無いよ。多分びっくりしたんだよ、外が眩しくてさ。それか、若しくは悲しいの逆」
「逆は、嬉しい? 嬉しくても泣くの?」
「そうだよ。僕はまだそこまで嬉しかった事は無いけどね。だから良く分からないけど、大人になるとたまにそういう事があるそうだよ」
「何だか私には良く分からない事ね」
「僕も」
 そう言ってコウタは、さも愉快そうに笑った。
 彼は此処で私と顔を会わせて以来、良くこういう顔をするようになったと思う。彼が一人で此処へ来ていた時は、大体うつむいて暗い顔をしていて、声を圧し殺しながら泣いている事も珍しくは無かったのに。コウタをそうさせたのは、私なのだろうか。それは多分良い事だろうから、心配はしなくて良いと思う。だけど、私までもそうなってしまったのは、良いかどうかは判別がつかない。そういう不安があるという事はきっと良くない事なのだろうけれど、笑うコウタの前でいつものように泣く自分の姿が、少しずつ想像出来なくなっていった。