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 自分でも、何故そんな事を言ったのか分からなかった。ただ、間に合えばいい。まだその時ではなく、確実に間に合う事は分かっていたのだけれど。それでもあの時の私は、それしか頭になかった。
 果たしてコウタはどうしているのだろうか。そればかり考えていた私は、少しずつ搾るように涙を流しながら、橋の影の下で川面を眺めていた。
 コウタがやってきたのは昼頃だった。昨日にも増して表情に生彩さがなく、覇気がまるで感じられなかった。上から糸で吊られて辛うじて歩いている、そんな姿だった。
「お父さん、やっぱり無理そうなんだ」
「そう、残念ね」
「昨日、急に倒れたらしくて。まだ意識が戻らないんだ。もしかすると、このままなのかも」
 コウタの父親がどうなるのか、私には結論だけは分かっていた。ただ、それだけは言うべきではないと思った。言うまでもなくコウタも分かる事だし、それを敢えて口にするのは憚るべきだからだ。
「目、また真っ赤だね。もしかして泣いてたの?」
「そう。でも、また始まるかも知れない」
 その予兆は少なからずあった。むしろ、自分で堪えているくらいである。だけど、いざ始まればそれも無駄な抵抗だろう。人が呼吸を我慢するのと同じくらい、不自然な事なのだから。
 コウタはふらふらと覚束ない足取りで近づき、私の隣へ腰を下ろした。自分が何処で何をしているのか自覚に乏しい、そんな様相だ。
「ねえ、もしかして碧はこのこと知ってたの?」
 その問いに、私は答えない。ただじっと視線を川面へ投げ続ける。
「碧が泣き出したのは、もしかして僕のお父さんのため?」
 コウタへ何と話せばいいのか、言葉が見つからなかった。コウタを悲しませない言い方はないのか、それを必死で考えるのだけれど、そういう機微に疎いせいで適切な言葉が捜し当てられない。
 言葉に困り黙っている私に、そのことをコウタは責めはしなかった。それは私の回答を求めていると言うより、私に胸の内を吐露したいだけのように感じた。
「もしかして碧は……僕のお父さんが何時死ぬのか知ってるの?」
 そう、知っている。
 何となくそれが私には分かるし、涙が出るのもそのためだ。けれど、それはコウタに伝えてはならない事だと思う。知ったところで、コウタが元気になるはずがない。だから私は、黙ったまま首を横に振った。嘘をついた。
「……ごめん、また変な事を言っちゃったね。責めるとか、そういうつもりじゃないんだ。ただ僕は、これからどうなっちゃうのか知りたくて……」
 コウタは今にも泣き出しそうだった。私は視線を向けず、ひたすら気付いていない振りをする。
 本当に、私には出来ることはないだろうか。
 コウタには、悲しみを振り払うだけの何かをしてやりたかった。けれど、その何かはあまりに漠然とし過ぎていて、とても手の届かない遠くの物に感じた。自分は何が出来るのか。役割として以外に何を持ち合わせているのか。考えれば考えるほど、なんて自分は空っぽで軽い存在なのだろうかと、ただただ悲観するばかりだった。
「ごめん、実は嘘をついてた事があるんだ」
 突然、コウタがそんな事をぽつりと言い出した。
「前に、僕は泣いた事なんか無い、なんて言ってたけどさ、あれは嘘なんだ。本当は、いつもここに来て泣いてたんだ」
 知っている。コウタが嘘をついていた事もだ。だけど私は知らない振りをしていた。
「どうして急にそんな事を言うの?」
「僕もその内、急に来れなくなるかも知れないから。心残りにしたくなかったんだ」
 それは、自分も死ぬという意味なのだろうか。
 コウタは死なない。少なくともここ最近には。私にはそういう事が分かるけれど、もしかするとコウタは気持ちが弱っていて、混乱してそんな事を言い出しているのかも知れない。
「じゃあ、これでもう心残りは無くなった?」
「ううん、もう一つ。僕はあまりお父さんと遊んだ事が無くて。出来れば、何処かへ一緒に遊びに行きたかったな。まあ、もう無理なんだけどね」
 コウタの表情は笑顔と悲しみが入り混じっている。そのせいで、笑顔が痛ましく見える。酷く自虐的だ。
 コウタに何かしてやれれば良いのに。心からそう思う。だけど私が出来るのは、死にかけた人にじわりと迎えを寄越す事だけだ。コウタにとって最も要らない事である。そうではなく、どうにか生かすような事でなければ。
 せめて。せめて、コウタの心残りだけでも晴らせてあげたい。どうにかして、それだけの時間を―――。
「……あ」
「ん? どうかした?」
「ううん、何でもない」
 思わぬ閃きに、私はつい言葉を漏らしてしまった。しかし、考えれば考えるほどそれは理想的な方法に思え、よく気を付けなければまた無意識の声を漏らしてしまうほど、胸が踊るような気分だった。
 そうか。私には一つだけ、出来る事がある。
 それはつまり、私が泣かなければいいのだ。そう、私が泣き続けない内は、きっとコウタの父親も生き続けられるに違いないのだ。