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 それは丁度、夕食間近の夕暮れ時の事だった。自室に誂えた読書スペースで、先週に発売された話題の小説を消化していると、突然大使館の職員が訪ねて来た。彼は酷く慌てた様子で、とにかく緊急事態だからと、俺は大使の私邸へすぐさま向かう事になった。
 大使はまだ休暇中だったはず。一体何が起こったというのだろうか。そう不安になりながら屋敷へ急ぎ、執事に案内された寝室では、文字通り息を飲む光景が待ち構えていた。
 寝室には、大使夫人のルイーズ、娘のアーリン、クレイグ書記官、ハミルトン公設秘書官、そしてサンディア医務官と、大使身辺の関係者が勢揃いしていた。その彼らの視線の先、豪奢なクラシック調のベッドの上には見るも痛ましい姿の大使が横たわっており、あまりの光景に俺はただただ絶句した。
「こ、これは一体……」
 素人目にも、大使が酷い怪我をしている事は分かった。顔の半分は包帯で覆われ、両腕にもガーゼや包帯が多数、右足は添え木を付けて吊られている。ここまでの大怪我を負った人間は、本当にしばらく目にしていない。
「やあ、サイファー君。お休みのところ、申し訳ないね」
 大使は首だけを動かして、見た目よりは元気な口調で、手を上げながら口を開いた。声はやや聞き取りにくいが、それは弱っているというよりは口の中の傷を庇いながら話しているためのように聞こえた。
「いやあ、ちょっと事故にあってさ。何、見た目よりは酷くないから安心してよ」
「事故? ちょっとの割に、随分なお姿のようですが」
 一体何が起こったのか。本当に事故なのか、実は反セディアランド派のテロではないか、そもそも警備が居る中でどういった状況で何が起こったのか、俺は訊ねるよりも先にあれこれ想像を膨らませてしまった。
「馬から転落したのですよ。久し振りの狩りだからと、はしゃいでしまって」
 そう呆れ声で話したのは、娘のアーリンだった。
「ちょっと待って。僕は、あくまで降りるのに失敗しただけで、落馬なんてしていないよ」
「馬を止めず手綱を離し、使い慣れていないボウガンを撃とうとして、落馬以外何がありますか」
「馬が突然立ち上がろうとしたんだよ。それで、咄嗟にバランスが取れなかったんだ」
「そうならないために、手綱を離さないようにと言われるんです」
 大使が休暇を利用して、狩猟へ出掛けた話は知っている。漁場が豊富なアクアリアにも狩猟文化はあり、寒冷地ならではの鹿や猪などの害獣が狩れる場所があるらしく、そのためのガイドを雇っていた。どうやらこの怪我は、その狩りの最中に負ったもの、しかも自損事故のようである。
「でも、命に別状は無くて良かったわ。あなたも、いつまでも若いと思っていてはいけませんよ」
 そうあやすように語るのは夫人のルイーズ。こちらはアーリンと違って何を考えているのかは分からず、いつもの真意の読み難い微笑みをたたえている。穏やかで温和な人ではあるが、頭の回転が早く勘も鋭い。そして何より、本国では変人と評判の大使と結婚したのだから、只者ではないのだろう。
「では、当分の公務はこちらで処理して戴きますね」
 そう話しながら、手にした書類をちらつかせるハミルトン。すると大使は露骨に顔をしかめて見せた。
「怪我人なんだから、傷病休暇でしょうに」
「そのようなものは、上役の方にはありませんよ。それに、ただ日長寝ているだけでは退屈でしょう」
「君は人使いが本当に荒いね」
「御存知の上で引き抜いたのでは?」
 ハミルトンは、大使がアクアリアに着任する際に引き抜かれて来た秘書官である。経歴もかなりの修羅場を潜ってきた輝く物があり、大使が着目しただけの事はある優秀な人物である。
「ですが、夜会や記念式典などは出席出来ませんね。キャンセル、若しくは書簡を送る事にしましょう」
「そうそう、それだよ。実は先日、レイモンド商会から頼まれてさ。今度、西方のクワストラ国にどうしても行かなきゃいけないんだよ。何でも、政府が音頭を取った新鉱脈の開発に絡んで、入札前にパーティーがあるそうで。北方系企業も参入に真剣だっていうアピールがしたいから、大使にも是非参加して欲しいって言われててさ」
「しかしその怪我では、とても出席は無理でしょう。万が一歩けたとしても、包帯が取れるまでは、他の参加される方にも迷惑になるかと」
「参ったなあ。他ならともかく、レイモンド商会だけは義理を果たさないと」
 レイモンド商会の創業者一族は、セディアランドで最も名の知れた名士である、世界規模の大企業である。ここアクアリアにも進出し事業展開をしており、大使も有形無形で様々な支援を受けている。その彼らの要請ならば、当然受けざるを得ないだろう。
「でしたら、私が代理で出席しましょう」
 おもむろに提案したのは、アーリンだった。
「どうせ、顔繋ぎ程度のお飾りのようなものでしょう? それなら、私でも十分代理は務まりますよ」
「そ、そうかい? う、うーん……」
 アーリンは既に大使館で予備外交官という肩書きで業務に携わっている。本人もまた、将来は外交官を目指しているため、早くから現場で学びたいという意向である。各国の名士が集まる場は、彼女にとって経験を積むのに最適の場所だろう。
「でも、君だけで大丈夫かな? クワストラはかなり遠いよ」
「御心配なく。父上の名を貶める事はしませんよ」
「でも、しかしなあ」
「そんなに不安ですか? いい加減、子離れして貰わないと困るんですが」
 そう、やや辛辣気味に話すアーリンだが、大使は不安げな様子を隠そうともしなかった。国の威信を掛けるような大事ではないにせよ、そういった場へ彼女を一人送るのは不安なのだろう。そして、それは恐らく能力的な問題よりも親としての不安だ。
「分かったよ、仕方のない子だね。じゃあ、誰かを同行させるから。それでならいいよ」
「分かりました。それなら、サイファーさんでお願いします」
 え。
 突然引き合いに出された事で、思わず間の抜けた声を漏らす。しかし、
「ああ、サイファー君なら任せても大丈夫かな。でも、ちゃんと彼の言う事は聞くんだよ? この世界では、彼の方が先輩になるんだからね」
「分かっていますよ、言われなくとも。でも、あくまでボディーガードとしてですからね」
 二人は俺に構わず話をどんどん進めていった。