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 自宅に戻り食堂へ入ると、ルイが夕飯の準備ため食器を並べていた。
「お帰りなさい。すぐに夕食の準備が出来ますよ」
 そうにこやかな笑みを浮かべるルイ。その笑顔には、いつも仕事の疲れが癒やされる思いだ。
 いつもの席に着き、体を背もたれに預けつつ寛ぐ。高い天井を見上げながら息を一つつき、この光景にも慣れてきたものだと感慨に耽る。今住んでいるこの屋敷は、大使から割り振られた外交官用の宿舎である。大使の邸宅に最も近い家族向けの建物がこれしかなかった、というのが理由だそうだが、二人で住むには明らかに広過ぎる。しかもすぐ隣が大使の邸宅であるため、何かと気安く呼ばれる事も多い。だが、アクアリアに赴任して既に一年以上も経ち、そんな生活にも慣れてきてしまった。人は何だかんだで、その生活に順応してしまうものなのだろう。
「ところで、大使はどうかされたのですか? 何だか使者の方の様子が、只事では無かったですけど」
「ああ。実は、狩りで怪我をされてな。しばらくは自宅で療養しなければならないようだ」
「そんなに大変なのですか? 後でお見舞いに行かないと」
「そうだな。ただし、絶対に酒は持って行くなよ。どんなに頼まれようともだ」
 それに療養中とは言っても、デスクで行う公務はほぼこれまで通りである。結局のところ、椅子に座っているか否かの程度しか違いはない。むしろ、所在が明確になっている分、職員達も仕事がし易くなるかもしれない。
「それと、来週なんだが。しばらく出張に出る事になった。西方のクワストラという所だ」
「その名前は聞いたことがありますよ。確か、金とか銀が沢山採れる国でしたよね」
「ああ、そうだ。そこのレセプションパーティーに、アーリンが大使の代理で出席する。その付き人、まあお目付け役といったところだな。だから留守中は頼んだぞ」
「はい、大丈夫です。任せて下さい」
 そう明るく微笑むルイに、俺も自然と釣られて笑みを浮かべてしまう。ルイと一緒にいると、例えどんな心持ちの時でも自然と安らぐ。何か特別な事をしている訳ではないのに気持ちを解いてくれるのは、ルイの生まれ持った人徳のようなものなのかも知れない。
 おもむろに席を立ってルイの背中側に回り込み、そっと抱きしめる。ルイは、あっと小さな声を上げるものの、俺の腕に感触を確かめるように自分の手を置いて頬を重ねた。俺はそのまま右手を、膨らみの目立ち始めたルイの腹へ回す。今は丁度四ヶ月目で、既にこれまでの服は入らなくなって来た。まだ生活に影響を及ぼす程では無いが、こんな時期にルイを残して行く事にはどうしても不安がある。初産だけに、本当に些細なことでも気になって仕方がないのだ。
「体の方はちゃんと気をつけるんだぞ。今まで通りとはいかないのだから、あまり無理をしないで」
「はい、気をつけます」
 紺碧の都は離れたくないが、仕事である以上はそうもいかない。こういう時のルイは理解を示し文句をこぼす事はないが、かえってそこに俺は罪悪感を感じる。大分無くなりかけてはいるが、未だ俺には負い目のようなものが残っているせいだ。
「最近の体調はどうだ? どこかおかしい所は無いか?」
「大丈夫ですよ。ちょっとだけ、味の好みが変わったかもしれませんけど」
「次の健診はいつだ? きちんと忘れずに受けるんだぞ」
「はい、分かってます。最近のサイファーさんは、少し心配性ですね」
 そうルイはくすくすと小声で笑う。そうだったろうか、と俺は口をすぼめ眉間に皺を寄せる。けれど、何事においても慎重になり過ぎるという事はないのだから、むしろこれくらいで調度良いと思う。俺達にとって初めての事なのだから、尚更だ。ルイは妊娠が分かって以来、少し浮かれ気味になっているように思う。気持ちが明るくなる分には構わないが、万事に油断するのはあまり好ましくない。とは言え、嬉しそうなルイに釘を刺すような事も躊躇われるのが実情だ。
「ん?」
 ふと気配を感じて扉の方へ視線を向ける。そこには、何やら思わせ振りに微笑む中年の女性、ダリヤの姿があった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「あ、ああ、ただいま」
 ダリヤは恭しく一礼し、テーブルにシルバーを並べる。
 彼女はつい最近雇った家政婦だ。ルイの体調を慮っての事と、彼女自身が二児の母でもあるため、子供が産まれた後もルイのサポートをして貰うつもりだ。
「お二人は何時も睦まじいですね。羨ましいですわ。うちはもう、そういうのはさっぱりで」
「そ、そうでしょうか……」
 ルイは頬を赤らめながらうつむく。こういう仕草は、出会った時から少しも変わっていない。同性からもそんな風に見えるようだ。
「来週は出張で留守にするので、ルイの事は頼みます」
「ええ、お任せ下さい。しっかりと番を務めさせて戴きますよ」
 頼もしげな返事をするダリヤ。やや恰幅の良いその姿には、家の事は彼女に任せておけば大丈夫だろうという安心感がある。ルイもそろそろ自分の体調の変化に不安を覚える時期だが、彼女が居るためかそれほど不安を口にする事は無い。