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 貸し切りなど、こちらの管理下にない店に入る時は、窓を背にせず入り口から遠く店内を見渡せる席に座ること。大使の外出の同行や来賓客の観光案内などをする時は、必ずこれらの事項を徹底していた。だから、出入り口に背を向けるカウンター席など論外で、俺は一番奥のやや薄暗い席に付いたのだが、案の定アーリンはそれについて文句を付けてきた。もっともアーリンもアーリンで、それには理由がある事と、俺が文句程度で簡単に折れる人間ではないと知っているため、ひとしきりの文句を並べた後は、すぐに酒の注文を始めた。
 ホテルの地下にあるバーは、まだ宵の口ではあるものの客入りは半分ほどと、かなりの盛況のようだった。おそらく、大半の外国人観光客はあの寂れた街並みを見たせいで、この時間にバーを探しに出歩こうという気にはならないのだろう。
 アーリンはリンゴラムのカクテルを、俺はいつもの飲み慣れた蒸留酒を注文する。アクアリアのような同盟国ならまだしも、遠く離れたクワストラにセディアランドの酒が置いてあるのは意外だった。やはり、少しずつセディアランド出身の企業の資本が入り込んでいるのだろう。まだ外国人向けのホテルにしか無い物も、やがては普通に街中を流通するようになるかも知れない。
「少し薄いですね、これは。やっぱりサイファーさんと同じにすれば良かった」
 小首を傾げながら、アーリンは手にしたグラスを訝しむ。かなり香りが強く、リンゴの甘酸っぱい芳香はこちらまで漂って来る。けれど、アーリンはあまり気に留めないらしい。
「止めておけ。大使の息女が酒焼けした声を出すなんて、醜聞にも程がある。それに、慣れていない酒は外では飲まない事だ。恥をかく原因になりかねない」
「そうでしょうか? 私、父に似て酒には強い方ですけど」
 セディアランド人の酒の強さはほぼ半々、強い者も弱い者も居るといった所だ。大使はよくワインを飲んでいるが、傍目から見ていると大体どの程度の量で公務に支障を来すか分かるようになり、その量は決して多いとは言えない。酒に弱いのは仕方がないとして、それに無自覚だったり勘違いしているのは問題だ。いずれ、何かの機会に自分の限界量を覚えさせなければならないだろう。
 アーリンは早々に一杯目のグラスを空け、二杯目にクワストラの地酒をベースにしたオリジナルカクテルを注文した。まだ酔ってはいないだろうが、ペース配分はあまり誉められたものではない。
「そう言えば、さっき此処へ入る時の事なんですけど。ロビーでホルン商会の人を見かけましたよ。社章を付けていたから、間違いありません。若い、なかなか格好良い男の人でした」
 唐突にそんな事を口にするアーリン。いつの間に見つけていたのか、事実なら俺は全く気が付かなかった事だ。
 ホルン商会とは、アクアリアの隣国、北東方面の第一国であるリンデルランド国を拠点に貿易業を展開する大企業である。アクアリアでもその名前は時折耳にするが、流石に世界展開しているレイモンド商会とは事業規模が大きく異なるせいか、あまり話題には上らない。それに、大使は既にレイモンド商会と懇意にしている事もある。
「彼らもクワストラの鉱脈に興味があるのか。リンデルランドでは、貴金属はあまり採掘されないのだろうか?」
「多分、海運業の方だと思いますよ。開発に関連した資材や、加工品の運送などなど。海運の通行通商権を独占出来れば、かなりの事業規模になります。貿易業だから船は沢山ありますけど、リンデルランドには不凍港がありません。現状のホルン商会の弱点を考えても、理に適ってますね」
 リンデルランドはアクアリアよりも更に寒帯の気候で、明確に夏季という境目がない。近海に厚い氷が張る事も珍しくはなく、冬季はそれが顕著になって港が使えなくなってしまうのだ。アクアリアにもそんな港は幾つかあるが、リンデルランドは全てがそうなってしまう。貿易業にとって港が使えなくなるのは死活問題だ。
「あ、話したそばから現れましたよ。ほら」
 アーリンが示す先、バーの出入り口から若いスーツ姿の男が現れる。歳は若いが、かなりの経験を積んでいるのか落ち着いた雰囲気があり、立ち居振る舞いも颯爽として気品がある。
 彼はくるりと店内を見渡すと、何故かこちらの姿を確認し、そして真っ直ぐ歩み寄って来た。
「失礼、私はホルン商会の西方担当営業のデリングと申します。セディアランドの在アクアリア大使、フェルナン様の御息女。アーリン様ですね?」
「はい、そうです。どこかでお会いしたでしょうか?」
「先々月の誕生パーティーで、遠目から拝見させて頂きました」
 恭しく一礼するデリングは、大使の息女を前にもまるで臆することがなく、さながら社交界の花形といった様相だった。
 確かあの誕生パーティーの時、会場で同席したレイモンド商会の社員が、ホルン商会の人間が居ると怪訝そうに話していたのを聞いている。多分、その時の事だろう。
「そちらの方も存じておりますよ。フェルナン閣下の右腕、私設秘書官のサイファー様ですね」
「右腕という程、立派な者ではありませんよ」
「またまた、御謙遜を。公務の際は、必ず傍にいらっしゃるではありませんか」
 確かにそれは事実だが、あれは他のスタッフが多忙のため、俺が付けられているに過ぎない。そして、皆が嫌がる大使の遊び相手や制止役も兼任しなければならないからだ。
「閣下の御様子は如何でしょうか? 狩りの事故で、かなりの大怪我をされたとか」
「今は落ち着いていますよ。まあ、歩けないせいで愚痴っぽくはなりましたけど」
 そう笑うアーリン。しかし俺は、あまり素直に感心など出来なかった。事故から一週間は経ったが、大使の怪我の事がリンデルランドまで届いているのは、幾らなんでも速過ぎる。例え名士の訃報でも、世間では一月遅れる事も珍しくはないのだが。
「随分とお詳しいですね。一応、アクアリアでも箝口令を敷いているのですが」
「御存知の通り、リンデルランドは交易の困難な国です。そのため我が社は、とにかく外部の情報収集に力を入れているのですよ。諜報と営業を兼ねている訳です」
 諜報は大袈裟な冗談だろうが、ホルン商会が情報を重視しているのは本当だろう。国の機関ではない一企業が、これだけの情報力を持っている事には素直に感心する。
「宜しければ、御同席させて頂けませんか? 入札会に向けて、情報交換をしたく思うのですが」
「構いませんよ。ねえ、サイファーさん?」
「ええ、それは構いませんが。ただ、我々は入札に直接参加する訳ではありません。どちらかと言えば、懇意にしているレイモンド商会の要請で来ただけで」
「いえいえ。私共は、お二人とお近付きになれればそれで十分です」
 人の良さそうな嫌味のない笑顔で答えるデリング。そこでようやく俺は、デリングは言葉通りの情報交換を持ち掛けて来たのではなく、ホルン商会として営業を掛けに来た事を悟った。大使がレイモンド商会と懇意なのは知られているが、そこにホルン商会も噛もうとしているのかも知れない。
「父フェルナンなら、もう少し有益なお話も出来ましたのに。申し訳ありません」
「いや、事故なら仕方がありませんよ。私の方からも、後程お見舞いの品をお贈りさせて頂きます」
 にこやかに話す二人だが、アーリンは明らかにデリングに対しての警戒心が無い。デリングが大使とのパイプを作ろうとしているのは見え透いているが、それは俺が客観的に見ているからだろう。そして、元監察官だったため、人の嘘には取り分け鼻が利くせいもある。
 つくづく、アーリン一人に外遊などさせなくて良かったと思う。この調子では、アクアリアへ戻って来るまでに、一体幾つの約束を取り付けさせられるか分かったものではない。