BACK

 翌朝、前日に予告していた通りの時間にアーリンの部屋を訊ねる。呼び出しにはすぐに応じて姿を表すものの、その表情はいささか精彩さを欠いていた。
「顔色が少し悪いようだが」
「何だか頭が痛くて」
「飲み過ぎだ。少しは自重しろ」
 その通りです、としおらしく答えるアーリンは、声も随分と勢いが無い。体調不良と自省の念が相まっているためだろう。
 一階のロビーから、併設された食堂へ入る。百人は楽に収容出来るであろう広いスペースで、朝日が眩し過ぎない程度に採光が凝らされ、非常に爽やかな印象を受ける内装になっていた。中庭に面したテラスも設けられ、如何にもリゾート地仕様の設計だと感じた。
 朝食は、いつものように特にこだわりも無く、目に付いたものを注文して、後はゆっくりとコーヒーを飲む。アーリンは流石に食欲が無いらしく、野菜スープだけを静かに淡々と飲んだ。やがてその僅かな食事も終わる頃、アーリンは唐突に幾らか赤みの戻った顔で訊ねて来た。
「ねえ、サイファーさん。昨夜のデリングさんですけど」
「どうかしたか?」
「まだ独身だそうです。お付き合いされている方もいらっしゃらないとか。あの歳で、収入もそれなりにありそうなのに」
「人には事情があるだろう。それに、仕事もある」
 仕事を趣味にしてしまった人間は、特にそんな傾向にある。デリングも有能な反面、プライベートとの境界が曖昧になったタイプかも知れない。俺自身、今でこそ妻帯しているが、かつてはそんな事など考えもしなかったものだ。
「結婚するなら、ああいう方がいいですね」
「な、何だ、急に」
「ですから、結婚相手です。経済力はさておき、行動力と教養のある男性に惹かれるのは、そんなに変わったことではないと思いますけど?」
 思いますけど、ではない。あまりにあっけらかんとしているアーリンに、思わず声を荒げそうになった。
 本気で話している訳ではないと信じたいが、周囲からそう取られる事だけでも面倒な事態を誘引しかねない。そして何より、フェルナン大使の父親としての恐ろしい顔が脳裏にちらつくのだ。
「君はまさか、結婚相手を探しに来た訳ではないだろうな」
「違いますよ。あくまで公務です。ただ、せっかく各国の名士が集まるのですから、ある程度見聞しておかないと将来もったいないでしょう?」
「……何にせよ、公務の枠を逸脱しないように。あくまで大使の名代である事を意識して」
「分かっていますよ。サイファーさんを心配させるつもりはありませんから」
 そう微笑むアーリンだが、腹の底では何を考えているのか分かったものではない。本人は自覚に薄いが、アーリンはあのフェルナン大使の娘で、明らかにその血を引いた言動が時折見られる。ますます油断はならないと気を引き締める。
 そもそも、俺は一回りも違う若い女性の心理など、一般論程にしか分かりはしない。おそらく、監察官として私情を持ち込まないように徹してきたせいなのだろう。妻であるルイの事でさえも、たまに理解出来ない言動がある。更に若い女性の考えを完璧に把握するのは、まず不可能だろう。
「でも、夫婦生活とはどういうものなのか、興味はあるんですよ。サイファーさんは、自宅ではいつもどのようにしているんですか? ルイさんとどんな会話をしているのか、休みの日はどう過ごすのか。普段のサイファーさんからは、あまり想像出来ないんですよね。いつも堅くって、生活感がありませんから」
「特にこれと言って、変わった事はない。普通だ」
「そうなんですか? でも、以前にルイさんと食事に行った時は、ずっとサイファーさんの事を話してましたよ。いつもしっかりしていて頼りになるとか、何かを読んでいる時の横顔が格好良いとか」
 だから、詳しく話せ。まさに、そんな心の声が聞こえて来そうなほど、アーリンの顔は好奇心に満ちている。
「ルイは最近浮かれ気味だからな。あまり真に受けるな」
「そうですか? でも、ルイさんは前からそうでしたよ。結婚したのは国籍の問題のせいだと聞いてましたけど、本当にそうなのかと疑っちゃうくらい。ルイさんは、元々サイファーさんの事が好きだったのでは?」
「だとしても、今はもう結婚しているんだ。問題は無い」
「いいえ、サイファーさんはどうなのでしょうか? 私は、その辺りを詳しくお聞きしたいです」
 人の惚気話など聞き苦しいだけだから、自分は同じ事はするまいと決めている。だが、アーリンの食い付きはまるで予想外だった。どうしてそんなつまらない事を聞きたがるのか、何が面白いのかと疑問に思ったが、そういう好奇心を持つのが若さなのだろう。要するに、体だけが酒を飲めるくらいに大きくなっただけの、まだ子供なのだ。
 ただ、自分の知らない事や興味を引かれた事に、訳も分からず首を突っ込んだ経験が自分にもあるだけに、なかなか強くは突き放せなかった。
「おはようございます。良い天気ですね」
 そんな中、唐突にこの席に現れたのはニコライとミハイルだった。丁度これで話が誤魔化せる。俺は密かに二人のタイミングに感謝する。
「おはようございます。昨夜はお仕事で遅かったのですか?」
「いえ、大したことではありません。それよりも、アーリン様。これから少々お時間を戴いても宜しいでしょうか?」
「構いませんけど、何でしょうか?」
「実は、とある要職に就かれている方がお越しになられております。それで、是非ともアーリン様へ御挨拶をしたいと」
 言葉を濁した言い方だが、それだけにその人物が本当に迂闊に口に出来ない重要人物である事が窺えた。昨日の仕事とは、おそらくその絡みなのだろう。
「そうですか。分かりました、案内して下さい」
 早速アーリンが席を立つと、ニコライとミハイルが先導役となって歩き始めた。