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「その理解し難い事とは、具体的にはどのような出来事だったのですか?」
「私には上手く表現する事が出来ません。強いて言うならば、何かがあの子に降りてきた、という感じでした」
「降りた? 神の使いか何かのような表現に思えますが」
「分かりません。ただ、そうとしか言いようのない印象でした。本質的にあの子は変わっていません。ただ、何かを強いものを内に得て使命感に目覚めた、そんな雰囲気でした」
 母親として長年連れ添った彼女ですら、曖昧にしか表現が出来ない異変。普通の人間なら勘違いで済ませるだろうが、母親だからこそ分かった変化だったのだろう。しかし、身内故の贔屓目のようなものである可能性も捨てきれない。
「初め私は、気鬱の症状の一種かと思っていました。ノイローゼのように放言を並べるようなそれです。ですが、よくよく聞いてみればそれとは異なっているようなのです」
「一体何を話していたのですか?」
「簡潔に申し上げれば、アルテミジア正教の打倒、という所です。と言うより、現体制の排除というべきなのでしょうか。今のアルテミジア正教は相応しくない人間が教えを説いている、このまま世に悪徳を蔓延らせていては世界が滅ぶ、アルテミジア正教の退廃は防がなければならない」
「それはその、いわゆる悪徳大司教などを失脚させようという、こういう言い方はあまり良くはありませんが、私怨を大袈裟に言っているだけのような気もしますけれど」
「私も最初はそう思いました。ですが、あの子の言っている事はただの世迷い事ではなかったのです」
 マルガレタはじっとオルランドの目を見る。その色は、困惑や悲しみ、覚悟の入り混じった複雑なものである。この十年あまり彼女が抱えて来た感情はそういうものなのだろう。
「あの子は、アルテミジア正教の大司教、司教、それと幾人かの関係者を殺めたのです。方法は分かりません。ですが、目撃者が多数居ました。聖堂の衛兵や助祭など、本当に数え切れないくらい」
「一体どのようにして?」
「アルテミジア正教では、年末に幹部会が行われます。そこで年始を迎えながら聖句を読み上げるのが恒例行事となっているのです。その時はあの聖堂に、世界中の関係者が集まります。その彼らが列席している場に、突然とあの子が現れ、そして次々と手に掛けたそうです。手段は分かりません。目撃者によると、ただ手をかざしただけで窒息していったとか」
「それは、魔王としての力、ということなんでしょうか?」
「おそらくは。ただ、あの子がいつそんな力を使えるようになったのか、私には分かりません。ですから、最初そんな話を聞かされても、私にはとても事実とは思えませんでした」
「それ程の事件が起これば、流石に大々的なニュースになりませんか? 仮にも教団の幹部が何人も殺害されたのですから。私はそんな事件は聞いた事がありません」
「箝口令を敷いたのだと思います。この街で教団の支配力の強さは既にご存知でしょう。それに、箝口令を敷かざるを得ない理由もあります」
「理由?」
「その時、あの子は皆の前で暴露したのです。その幹部達が裏で何をしていたのか、どういった理由で殺めるのか。この事が広まる事を教団の恥と考えたのだと思います。それで本当の死因を隠蔽し、時期をずらすなどして病死などの自然死を装いました」
 謎の力はともかく、ゲオルグが教団幹部を殺害するには十分な動機がある。けれどそれは、あくまで私怨である。魔王とは、もっと世界を支配的に侵略する戦いをしたのではなかっただろうか。オルランドはそこが未だ引っかかった。
「ゲオルグが魔王を名乗ったのは、その時からなのですか? まだ魔王の名が知れ渡る前であることと、教団の恥が拡散する事を恐れたから、アルテミジア正教は魔王に幹部を殺された事を公表しなかったのでしょうか」
「おそらくはそうでしょう。下手に嘘をついて、魔王に真実を露見されたくはないと恐れていたのでしょう。ですから非難声明のみに留めたのだと思います」
「魔王としても、既にここでの目的は果たしたのだから、声明に反応して報復に出る必要もない、と」
 そもそもこの街には母親が住んでいるのだ。危険に晒すような手出しをするはずがない。
 目的。
 ふとオルランドは、魔王の行動と動機について気にかかった。このアルパディンには母親が居ること、既に殺すべき者は殺したこと、以上の理由で攻撃を仕掛ける事をしなかった。しかしそれは不自然な事である。もし世間一般で言われているように、魔王の目的が世界の征服や人類の根絶ならば、まずアルパディンこそ陥落させて人類の心を挫くべきである。軍需工場を探して破壊するだけの教養があるのだから、それが分からないはずがないのだ。そうなると、別の動機が浮かび上がってくる。
「魔王は……ゲオルグは、もしかして世界征服も人類滅亡も目的ではない?」
「はい、少なくとも私はそう信じています。あの子は言っていました。悪徳が蔓延っているのは、ここだけではない。だから世界中から一掃しなければ、と」
「それで、世界に対して戦争を仕掛けた……」
 世界の悪徳を排除する事が、本当に魔王の目的だとしたら。ゲオルグを魔王と呼んだ者にとってそれが都合の悪い事だから、善悪を大衆に誤認させるための蔑称だったのだろうか。
 悪徳を滅ぼすために、大量の人間を殺害する。普通の人間では罪悪感に苛まれて、とても出来ない発想と行動である。まさに、何かが彼に降りたとしか言いようがない。そして一体何がどういった理屈でそのようにしたのか。数々の異形の魔物を率いて世界と戦争できる力が備わるなど、それこそ神でもなければ出来る訳がないのではないか。
 分からない事に、すぐ結論を出す必要はない。自分にそう言い聞かせて落ち着けるオルランド。ともかく、今は一旦一人になって気持ちを落ち着けさせながら、得た情報を整理するしかない。
 オルランドはマルガレタに丁重に礼を述べてから暇を告げる。その別れ際、オルランドは一つだけ不意に頭を過ぎった質問をマルガレタに投げかけた。
「最後に、もう一つだけ。あなたはどうしてここに住み続けているのですか? これまでの出来事はあなたに改宗させるほどの出来事だったはずなのに、それでもなおこの街に住み続けても辛いだけではと思うのですが」
 するとマルガレタは、事も無げに淀みなくはっきりと答えた。
「あの子との思い出は、もう此処にしか残っていませんから。それだけで、理由は十分です」
 随分と愚かな事を訊いてしまった。
 オルランドは短慮な質問を謝り、一礼してマルガレタの家を後にした。