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 囚人番号M20715は、これまでのような仮釈放を目的とした平穏な生活を送ることが出来なくなっていた。その日も囚人番号M20715は規則に忠実に従い、刑務作業にも積極的な姿勢で取り組んでいた。けれど心中では新たに収監された囚人番号L00012の事が気にかかっていて仕方がなかった。彼が不明瞭な罪状と刑期で収監され、更正システムの監視が適用されていないなど、疑問は幾つかある。だが最も気掛かりなのは、彼の目的である。一体何の目的でわざわざ月面までやってきたのか、だ。復讐が理由であろうことは明らかだから、囚人番号M20715にとって最もやられたくないこと、つまり仮釈放の取り消しが目的ではないかと最初は考えた。けれど、仮釈放とは法務省の許可だけでなく、被害者遺族の許可が無ければそもそも審議にすらかけられない。囚人番号L00012は、少なくとも自身が生きている限りは囚人番号M20715を収監させ続ける事が出来たはずなのだ。それを許可した上で直接乗り込んできたこの事態、囚人番号M20715にとっては困惑するばかりだった。
 月面での作業中は、宇宙服のため非常に視界が狭い。普通は自分の作業に人を巻き込まないようにと一層注意するところだが、そもそもムーン・ダイヤでは囚人同士の相談を防ぐため作業は一人一人隔離されて行われている。だから視界の狭さはさほど問題ではないはずだった。
 囚人番号M20715は時折背後や周囲を確認しながら刑務作業を行っていた。それは、囚人番号L00012の存在が気にかかっていたからだ。彼は何故か更正システムの監視下に置かれていない。そのため、突然ここに現れ襲撃される危険性もあるからだ。
 囚人番号M20715の出した結論はそれだった。囚人番号L00012がわざわざこのムーン・ダイヤに乗り込んできた理由はただ一つ、自らの手で憎き相手に復讐を果たすこと。何故今の時期なのか、仮釈放を先に許可している理由は何か、そういった疑問はあったものの、何よりムーン・ダイヤへ乗り込んで来る理由が他に思い当たらない。囚人番号M20715は、あれ以来自分の命が狙われる危険について、四六時中警戒をするようになっていた。
 月面の砂をすくいながら、一体どんな手段でどんな時に実行するのかを、ただひたすら考え続ける。単純作業である事と長年の経験から、囚人番号M20715は仕事と思考をほぼ切り離す事が出来るようになっていた。そのため更正システムの監視からも警告を受ける事はなかった。
 囚人番号L00012はすぐに襲うような素振りを見せてはおらず、他の囚人達同様に規則を守り模範的な態度を取っている。彼の復讐とは激情に任せた感情的なものではなく、冷静冷徹に慎重に事を果たそうというものなのだろう。それは囚人番号M20715にとっては非常にストレスとなった。更正システムの監視下に置かれていない相手が、いつかどのような手段か分からない方法で自分の命を取りに来るのだ。そんな状況を受け入れるほど囚人番号M20715は豪胆でも楽天家でもなかった。
「皆さん、間もなく刑務作業の終了時刻です。ただちに作業を止め、後片付けを行って下さい」
 やがて一日の刑務作業の終了を知らせるアナウンスが流れる。囚人番号M20715は作業を止め、出した機材の片付けを始めた。片付けが終わると、次は入浴になる。囚人番号M20715は服を着替え、アナウンスの指示に従って移動を始める。
 ムーン・ダイヤには囚人用の入浴施設が備え付けられている。けれどそれは通常の入浴所とは異なり、入り口と出口が異なる一本道のような構造をした場所を通り抜けて使用するような場所だ。入り口と出口はそれぞれ脱衣場で、着ていた服の回収と新しい服の支給が行われる。裸になった囚人達は、天井からシャワーの湯が降り注ぐ廊下をひたすら行進する。石鹸やシャンプー等は支給されない。シャワーに使われているお湯自体が成分調整された洗浄力の高いものだから、という理由だ。それはまるで洗車機を通るようなもので、これにより人間的な尊厳を損なわれたと捉える者も少なくはない。設計者はそもそもそういう目的で設計している。尊厳を損なう事で、更正システムに対し従順な人間にするためだ。
 そんな入浴所ではあったが、囚人番号M20715は慣れた様子で普段通りに通過し、最後に出口の部屋で支給された新たな囚人服に着替え人心地つく。屈辱を感じないと言えば嘘になるが、やはり仮釈放が近いという事実が心を大きく寛容にし、労働の汗を流す事が気持ちいいとさえ思わせるほどだった。今更こんな事で一喜一憂する必要が無い。囚人番号M20715はムーン・ダイヤの異様な規則や構造にもそう思えるほどの余裕があった。
 服を着替え終えたその時、丁度通路側から囚人番号L00012が現れるのを目にする。彼はこちらの視線に気付くものの、先日のように話し掛ける事もなくすぐに他を向いてしまった。ムーン・ダイヤの入浴に気持ちをやられたか、と一瞬思ったものの、囚人番号L00012の目つきはそういった卑屈なものではなかった。
 しかし、彼は一体何をするつもりなのか。今はムーン・ダイヤの生活に順応しようとしているようにも見受けられるが、それは次の目的のための準備だろう。
 彼はいつ何を仕掛けてくるつもりなのか。
 服を着替える囚人番号L00012の後ろ姿を眺めつつ、そんな疑問と不安で頭が一杯になる囚人番号M20715だったが、長時間部屋に居続けた事をシステムに警告され、慌てて部屋を後にした。