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 その日から囚人番号M20715は、暇さえあれば仮釈放後の生活について考えるようになっていた。引き続き模範囚としての振る舞いには注意していたが、彼の行動原理そのものが仮釈放の許可と共に一変した。元々長く抑圧されてきた男である、こうなるともはや歯止めが利かなかった。
 囚人番号M20715はこれまで仮釈放のためにずっと模範囚を演じ、息の詰まるような生活を続けて来た。けれど、仮釈放さえ降りてしまえばこのムーン・ダイヤから出て行く事が出来る。そしてその先には、規則の無い自由な生活が待っている。ここでは到底出来なかった事が何でも自由に行えるのだ。美味い酒を飲む事も、カジノでスロットに興じる事も、綺麗な女を引っ掛ける事も、全て自由である。刑務作業で幾許かの金は支払われるが、その額はどうせたかが知れている。出所祝の景気付けでパーッと遊ぶのに、手っ取り早く誰かから掻払ってしまおう。州境ならば警察も管轄の関係でもたつくはずだ。そのやり方を何度か繰り返せば、当面の金には困らなくなるはずだ。
 囚人番号M20715の考える仮釈放後の生活とは、そんな身勝手かつ短絡的で思慮の足りないものだった。服役中の二十年の間にどういった生活様式の変化や技術革新が起こったのか知りもせず、仮釈放後にどういった法的制約があるのかも把握していない。長年仮釈放にこだわっていながら、囚人番号M20715は仮釈放と釈放を同等に考えてしまっているのだ。それは、犯罪を犯しても心からの反省が無く、模範囚に徹底したのも仮釈放が目的だっただけという、そんな男の限界とも言えた。
 月面に立ち、ひたすら与えられた刑務作業に精を出す囚人番号M20715。月面の砂をひたすらすくいつつ、頭の中は仮釈放後の事で一杯になっていた。それは、時折思い出し笑いのような不気味な笑みを浮かべさせるほど、彼にとっては甘美なものだった。
 一日の作業が終わり、食事と入浴を行い、自由時間となる。囚人番号M20715は談話室でのんびりと本を読みながら過ごしていた。もっとも、本は眺めるだけで中身など頭には入っておらず、単に自分はいつもと変わらずここにいるというアピールに近い。囚人番号M20715は、仮釈放の事を一切他言していない。それは、この事で逆恨みや嫉妬などから来る妨害を受け、万が一にも取り消しにならないようにするためである。そのため誰にも感づかれないよう、あまり変わった行動は仮釈放の当日まで取るべきではないと考えている。
 全く興味のない本を眺める作業だが、それでも仮釈放の事を考えれば自然と胸が躍った。楽しい想像に胸を膨らませ、ついうっかり笑みをこぼしやしないかと注意するほどだ。表面上は落ち着いて見せても、内心はほぼ浮かれてばかりだった。
 そんな状態だったからだろう、囚人番号M20715はたまたま見掛けた囚人番号L00012に声をかけてしまった。
「よう、何読んでるんだ?」
 隅の椅子に座り読書をする囚人番号L00012。そこれ馴れ馴れしく話し掛ける囚人番号M20715の姿は、如何にも上機嫌で油断があった。彼自身にはこれまでのような模範囚に徹していた慎重さと客観性は失われつつあった。
「ああ、これだ」
 そんな様子に気付いているのかいないのか、囚人番号L00012は一瞬探るような表情を浮かべ、そして読んでいた本の表紙を囚人番号M20715へ見せる。それは月についてあれこれ書かれた本だった。その本は比較的若年層向けの噛み砕かれた解説が中心で、専門的な月の実態が書かれている訳ではない。しかもヘリウム3については、精製する施設の事は書かれていてもムーン・ダイヤのような民営刑務所が採掘を行っている事は意図的に省かれている。囚人番号M20715は以前にこの本を読んだ事はあったが、ムーン・ダイヤの事に何も書かれていないという事だけは未だ憶えている。
「そんなに面白くないだろ? せいぜい、観光ガイドの延長みたいなもんさ」
「そうだな」
 囚人番号M20715の不躾な言葉に、囚人番号L00012は微苦笑し本を閉じる。
「月面旅行が今でもそこそこ人気なのは知ってるか?」
「ああ、そうらしいな。月面での刑務作業なんかやってるとさ、たまに宇宙船が通るのが見えてさ。輸送船にしては小せえなあと思ってたんだが、旅行会社の持ち物なんだってな」
「月面ベースには、宿泊施設を備えた所もある。そこに数泊して帰るのが典型的なツアーだ。施設越しに月を眺めたり、観光用のビークルに乗ったりしてな。そういうのが楽しいそうだ」
「砂と岩場くらいしか無いってのに、物好きなのも居るもんだなあ。アンタも参加したのか? そのツアー」
「いや、する予定だったんだ」
「予定? 何かあったのか?」
「家族旅行だったんだよ。直前に、妹が死んだ。それ以来、月の事を思い出すたびに空気が暗くなるから、今は家族の間でもその話はしなくなった」
 淡々と話す囚人番号L00012。その言葉の指すことを察した囚人番号M20715は、自分が触れてはならない話題に触れてしまった事に気が付き、戦慄し息を呑んだ。