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 囚人番号M20715は、より一層周囲に向ける警戒心が強くなっていった。彼の警戒は、朝の目覚めから既に始まっていた。起床合図よりも早く目覚め、いち早く寝ぼけた頭を叩き起こす。更正システムのアナウンスに従い行動する間も、周囲の動向には必ず警戒していた。特に囚人番号L00012の存在については過敏になっていた。時には更正システムの通常の指示が囚人番号L00012が陥れるために出しているようにすら聞こえ、時折軽微な注意を受けるようになっていた。
 そんな囚人番号M20715の変貌は、一部の囚人達の間では噂になっていた。更正システムの監視を警戒してほとんど雑談をする事のない囚人達が、思わず言葉で確認しあったりしてしまうほど、囚人番号M20715の変貌ぶりは顕著だったためだ。元々模範囚として知られていたが、密かにその態度を気にくわなく思う囚人も少なからず居る。そのためか、囚人番号M20715についての噂は大分正確さを欠いた中傷を目的にしたかのようなものへ変わっていった。
 囚人番号M20715は、そんな自分を取り巻く環境の小さな変化に、当然だが気付いていた。しかしそれをどうにかしようという意思はなく、あえて放置した。自分は二十年以上も仮釈放のために模範囚を演じる努力をしたが、他の囚人は出所を望みながらも何の努力もしない弱者だと、日頃心の奥底では見下していたからだ。どうせ大した事など出来ない、それが囚人番号M20715の本音である。
 その日の朝も囚人番号M20715は起床の合図より先に目覚め、ベッドから体を起こした。ベッドに腰掛け直し、未だぼんやりとした頭を抱え大きな溜め息をつく。囚人番号M20715は、隠していた月の石が無くなってしまった件以来、警戒心を剥き出しにするあまり常時気が張って夜もあまり眠れなくなってしまっていた。こうして頭を抱えている間も眠気が額の奥にべっとりこびり付いているが、いざそれへ身を任せようとしても何故か眠ることが出来ないのだった。
 洗面台で冷たい水を出して顔を洗う。それで何とかまぶたの重たさだけは解決するが、そもそもの眠さはそのままであり、体から抜けきらない疲労感へ拍車をかけた。
 更正システムが起床を知らせる。囚人番号M20715は指示通りに本人認証を済ませ、出された服を着替える。そして次の指示で廊下へ出て、他の囚人達と一緒に朝食のホールへと移動する。朝食後は刑務作業へ移る。囚人番号M20715は刑務作業が始まるたびに月の石の件を思い出し、不安と苛立ち、憂鬱の入り混じった心境にさせられた。その日も同様の心境で刑務作業へ入る。そしてその心境は明らかに作業の内容に影響を及ぼしていた。一頻り砂をすくい取り集めたそれを確認すると、砂の他に大小様々な小石が入り混じっていた。普段なら、石は砂とは成分が違うため、すくい取った際に必ず取り除く。しかし今日は、見落としどころか自分でも信じられないほどの小石を混入させてしまっていた。小石の入り混じった砂の光景は、囚人番号M20715にとって少なからず心境を追い詰める類のものだった。
 何度も同じミスをしながらも粘り強く作業を続け、やがて刑務作業の終了が告げられる時刻になった。準備室へ戻った際、普段はあまり気にしていなかった今日の作業結果記録を確認した。そして、ここ数日間の作業結果をグラフで表示させ、自分でも想像しなかった成果の下がり方にショックを受ける。そうなる原因は明らかで、周囲への警戒のし過ぎによる集中力の不足だ。囚人番号M20715もそこまでの自己分析は出来た。
 このままでは模範囚としての自分の評価に傷がついてしまう。グラフを見た事で囚人番号M20715は、警戒こそ解きはしなかったものの、思考が別人のように冷静になった。最優先すべきは、仮釈放である。そしてそのために、今一度模範囚としての振る舞いに注意せねばならない。囚人番号M20715が地力でそれに気付いたのは、仮釈放への執念がそうさせたと言っても過言ではなかった。
 その日以降、囚人番号M20715の振る舞いはいささか変わり始めた。張り詰めた雰囲気は残ったままだったが、同時に終始苛立っていた心の余裕の無さが見て分かるほど改善された。彼の更なる変貌ぶりは、囚人達の間では大して語られはしなかったものの、気付く者は敏感に気付いていた。そしてその変貌についてそれ以上の興味は持たれず、誰も詮索したり噂するような事はなかった。
 そういった状況の中、いつの間にか囚人達の間で新たな噂が流れ始めるようになった。それは、囚人番号M20715の態度の変わり方は仮釈放が決まってもはや模範囚として我慢した振る舞いをする必要が無くなり本性が漏れた、そういうものだった。この噂は少し前の余裕の無かった囚人番号M20715の振る舞いを指したものであり、そのせいで誰もが改めて囚人番号M20715に対し注目するようになった。既に囚人番号M20715は落ち着きを取り戻し模範囚としての振る舞いをしているが、囚人達は見たままの囚人番号M20715よりも噂の囚人番号M20715の姿の方を信じるようになっていった。